「我が国の現在における最大の不幸は無知蒙昧にして頑固なる政治家によつて行政及び立法府が支配されてゐるといふことである。しかも彼らは旧時代的帝国主義者によつて庇護されてゐる。」(原理の照明)

わが国の現在と言っているのは昭和25年頃のことです。まだマッカーサーのGHQによる占領下にあった時代です。首相は吉田茂。旧時代的帝国主義者というのは、戦争中に日本帝国を支配していた層が残存していて、それが政府の後ろ盾になっているという意味だと思います。本当は占領者であるアメリカの分析が一番にあるべきで、傀儡である日本の政府やその背後の勢力の存在はその次にあるはずだと思います。しかし少なくとも25歳の吉本にはそこまで分析する情報も手立てもなかったでしょう。

おまけです。
「情況への発言」1972年11月         吉本隆明

世界の了解を、世界図式からはじめるか、日常の箸の上げ下ろしからはじめるかは、もちろん恣意的な自己倫理であり、またそれ以外のなにものでもない。しかしながら、このいずれの発想も政治運動の帯域の問題になりえないことは、まったく自明のことにしかすぎない。
<政治運動>は、それに固有な帯域をもち、運動者に、その帯域の内部で消滅することを要求する。文学には、それに固有な帯域があり、その帯域の内部で消滅することを強いるのとおなじである。
ところで頓馬な政治運動家は、<政治運動>と<革命>とが、なにか関係があるかのように錯覚している。そして、途方もない世界図式を描くのだ。そして、頓馬な政治好きと政治嫌いが、その図式に追従する。<政治運動>と<革命>とは、なんのかかわりもないことに自覚的な者だけが、政治運動に耐えるのだ。文学が、徒労にすぎないことに自覚的なものだけが、文学に耐えるように。
では、ただの人たちは(大衆)はなにに耐えているのか。もちろん日常生活の繰返しに、夫婦や親子や職業の、どこにも解放されない卑小な生活に耐えている。耐えていないものなんか存在しうるのか。存在しうるかどうかは別として、亡者として存在しているのだ。
いま、この問題にとって必要なのは、共同体の累積の仕方と方法の同一性と相異性について、もう一度、世界を洗い直してみることである。つまらぬ密輸品の観念を粉砕するために。そうすれば、帝国主義、植民地、先進地帯、後進地帯、第三世界、アジア的、西欧的、社会主義国、資本主義国などという世界国民は、一度は霧散するにちがいない。