「友よ。ではあの不かつ好な道標の前へ来たら訣れよう。君は右へ僕は左へゆけとそこに書いてある。ただひとつのことをむかへ入れたために僕の精神は何かを喪ったのだらうか。精神は自衛の本能をもってゐて、僕はネガティヴの思考と行為とを注意深く選択してゐる。」(夕ぐれと夜との独白)

これはただひとつのことって何?ってことですね。こういう書き方って文学的ですよね。もっとぶっちゃけてザックリ書いてほしいですね。しかし書きたくはないわけでしょう。なぜかというと通りいっぺんの言い方でいうと誤解を生じる微妙なことだからです。でも要するに、通りいっぺんで言っちゃぇば徹底的な批判精神というようなものを自分の心に迎え入れたために、昨日まで無邪気に一緒にいたような友達や仲間とも、思想としての辛い別れが生まれるというようなことだと思います。それこそは生涯繰り返された吉本の人生であり宿命であり、心の奥底にある痛みだと思います。
ネガティヴな思考と行為を選択するというのは、要するに受身ということですね。現実の中に生きていて、その現実が自分に強いてくるものがある。逃げても逃げてもどうしても強いられてやるしかない思考と行為こそが重要だという吉本の根本的な考え方です。必然性というものですね。宿命と言ってもいい。批評とか批判精神というものは宿命を探り当てる精神です。

おまけです。これは「試行」という吉本の個人誌、ミニコミ雑誌に連載されていた「情況への発言」という文章です。個人誌をこつこつ続けたのは、大手の出版社では言論統制があり、また吉本を排除する傾向があり、自由な発言や論考の発表ができないためにそれを維持する場を手づくりで作り続けたということだと思います。吉本の主要論文である「言語にとって美とは何か」も「心的現象論」も報酬のない「試行」で延々と書き続けられたものです。「試行」では吉本の本音の文体と真正面からの論理が味わえます。「情況への発言」は文庫本にもなっています。ちなみに田原先生も「試行」に映画批評を連載されていました。これは1972年6月の「情況への発言」で連合赤軍事件が起こった頃の時代状況に向けて書かれています。「あの不かっ好な道標の前に来たら訣れよう」

「情況への発言」 ――きれぎれの批判――
まず、一九七二年三月号で、特集「吉本隆明をどう粉砕するか」を編集した左翼ゴロ雑誌「流動」の編集者である左翼くずれに一言いっておくべきだろう。わたしは、きみたちと雑誌「流動」を粉砕する自由と権利を獲取したのだということを肝に銘じておくがいい。きみたちが忘れようと、わたしは絶対に、この権利を行使する。丸山真男のような紳士と、わたしとをおなじものとおもうな。わたしはものを考えること、思想をのべること、それを公表することを、自称政治運動家の<実践>などより、はるかに重いものとみている。したがって、きみたちと雑誌「流動」とはわたしにきみたちを粉砕する絶対的な権利を与えた、ということを忘れるべきではない。出来ごころなどとは死ぬまで言うことを許さない。必ず見つけだし追跡し粉砕する。ところで、蔭でそそのかした奴と、踊った中島誠、宮本忠雄その他の売文家はどういうことになるんだ。ひと袋にぜんぶ詰めこんで、蹴っとばすだけだ。いいかおぼえておくがよい。はじめから政治的に意図された批判は、組織的におこなわれようと、黒田寛一竹内芳郎津村喬のように個人名でおこなわれていようと、足蹴にするか、<頓馬>とひと言で片付ければ、いいのだ。こういう連中が、<連合赤軍>のリンチ殺人は狂気の仕業であり、じぶんたちは、無縁であるというような遁辞で、延命しようとしても、わたしは、まったく認めない。