「アジアの最も必要とするのは文化史的風土の発展といふことではなく、社会構造的な風土の発展といふことである。そして最も現実的な課題は、ヨオロッパの帝国主義的な経営の歴史を消滅せしめるといふことである。これが行なはれた後に、初めて、社会構造の淘汰が自律的な課題として現実化されるのである。」(断想Ⅱ)

これはアジアという地域の特長は社会構造を上から支配者が与えて、それを逆らわずに受け入れて、黙々と従い、社会構造がいいのか悪いのかさして関心がないということを指摘しているのだと思います。そう言われると思い当たることがあるでしょう。私はおおいに思い当たりますね。会社であれば経営者の行うこと、国家であれば政府の行うこと、それは偉いさんたちに任せてもっぱら自分の日常生活の中にすべての関心を向ける。支配するものたちにとっては大変都合のいい特長をもっているのが私たちアジアの民の特長だと思います。
だからアジアの課題は、そういう無関心の特長に長い歳月慣れ親しんできた一般大衆自身が、自分たちで考えて社会構造、つまり政策とか制度とか会社の経営とか地域や業界の決まりとかに自分たち一般大衆の考えを反映させようとするようになることだと言っているわけです。そしていったん社会構造に目覚めれば、日本だけの問題ではなく世界の政治や経済の問題にも目覚めるわけです。するとそこには戦争を引き起こした根源であるヨーロッパを中心とする帝国主義、つまり自国の経済的な発展のために他国を侵略し植民地として支配していく国家と企業のあり方が問題となります。しかしこれは若き吉本の文章であって、その後の吉本はこんな単純なことは書かないと思います。ただ未熟であれ間違いであれ自分が歩んだ足跡を隠すということがないというのが吉本の信条です。
ところでこの手の文章、社会がどうとか政治がどうとかいう文章に触れて、もうその入り口だけで拒否反応がでる人がいると思います。アボガドの嫌いな人がアボガドの大盛りを出されたような「これはムリ」という気持ちになる人がいます。例えば人の集まりがあって、この手のインテリっぽい話題になった時に、嬉しそうに自分の考えを述べる人たちが互いに盛り上がっている後ろの方で「はやくやめてほしいなあ」という感じで我慢して黙っている人たちがいます。そしてインテリっぽい話題に夢中で参加する人は、そういう黙っている人にはたいてい関心を向けません。関心を向けるとすると、学校の先生のように「この無知な人たちに大事な社会問題を教えてあげよう」という態度になるか、お勉強秀才やその成れの果ての傲慢なエリートのように「ああいう人たちはほっておいて優れた自分たちだけで議論しましょう」という態度になることが多いんじゃないでしょうか。そんなことはない?だったらどういう態度がありうるでしょう。社会や政治や経済がどうのという新聞の一面のような話題に入っていけないという人に対して、あなたは内心どういうふうに考えるか、それが吉本にとって深刻な問題でした。
政治や経済というものはインテリっぽい話題になるだけではありません。それは現実として関心があろうとなかろうと各自の日常生活と人生に影響を与え、襲いかかり、かけがえのない大切なものを奪っていきます。吉本が体験した戦争はその最たるものでしょう。また私たち日本人がこれから本格的に経験するであろう百年に一度の世界大恐慌も、政治や経済が個人や家族に襲いかかるものです。だったらなおさら社会的な関心は必要じゃないか、とすでに関心をもっているインテリっぽい人は思う。ということになると結局「教えてあげよう」となるか「ほっておこう」となるか「バカだなあ」と馬鹿にするかという態度になるんじゃないでしょうか。こうした知識から知識に関心をもたない人に向ける啓蒙や無視や蔑視以外にとりうる態度があるか。それはあるわけです。それが吉本の思想の真髄です。
以前も引用しましたが、吉本の知と非知についての考えを吉本の「マルクス伝」という本から抜き出してみます。
マルクス伝     吉本隆明
(略)
ここでとりあげる人物(マルクスのこと・注記依田)は、きっと千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。人間が知識―それはここでとりあげる人物の云いかたをかりれば人間の意識の唯一の行為である―を獲得するにつれて、その知識が歴史のなかで累積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然の経路である。そして、これをみとめれば、知識について関与せずに生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯でであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。
(引用終わり)
この最後に書かれている怖ろしさというものが分かる態度が、知識と非知識についての啓蒙でも無視、蔑視でもない態度だと思います。市井の片隅の人物、つまりあんたであり私ですが、は市井の片隅、つまり小さな生活圏で生きています。しかしその片隅には堅い現実が壁のように、泥沼のように、あるいはオアシスのように存在しています。片隅でいきるということは、現実に逃れようもなくぶつかって生きているということです。片隅に存在する現実と、それにぶつかる片隅の人物の格闘は眼に見えないし、充分に表現することも難しい。しかし記述の世界に存在する知識というものは、本来その片隅の真実から生じたものであると思います。そして知識は常にこの片隅の人物と現実の格闘から生まれる真実に、試され変更を突きつけられる幻想の領域です。あんたや私がそのまんま市井の片隅の人物であろうと、あるいは大学の教師とか官僚とか弁護士とかの市井の片隅よりも少し知識よりの人物であろうと、自分の中の市井の片隅の人物の部分を自分の思想の核心としてもっていないとただの幻想の中の人物になってしまうということです。自分ではたいそうなエリートや知識人、あるいは多数の集団の一員で立派なもんだと思っていても、単なる幻想の中の人物になる不思議の国のおっさんになっているということはありえます。それが怖ろしいこと、です。
また吉本の文章の中味の解説ではなく、入り口の解説になりました。しかし私が考えるに、それは大切なことなんです。あしからずm(-_-)m