「カール・マルクスの資本論は、大凡(おおよそ)すぐれた著書が持っているあらゆる特質……精緻さ、心情の湧出、理論の完璧、現実性を獲得するまで鍛へられた理論…を具へていた。しかも一瞬もゆるむことのない精神の緊張性によって支へられてゐた」(カール・マルクス小影)

私は資本論をちゃんと読んだことがないので資本論について語る素養がありません。私が言えることは吉本がマルクスの思想をどう捉えていたかについてのおおざっぱな自分の理解だけです。マルクスの思想はヘーゲルの思想をどう乗り越えようとしたかということを抜きには捉えられません。ヘーゲルもまた吉本の言う「精緻さ、心情の湧出、理論の完璧、現実性を獲得するまで鍛へられた理論…を具へていた。しかも一瞬もゆるむことのない精神の緊張性」というものを具えた思想でしょう。吉本がマルクスを乗り越えていこう、継いでいこうとしたように、マルクスヘーゲルを師とも思想のライバルとも見ていたわけです。マルクスヘーゲルに対してどう考えたかについて吉本が講演で語っていることがあります。例えばヘーゲルが世界史について語る。アジア的段階とか古代的段階というような大きな概念を振り回して語るわけです。しかしヘーゲルの時代にそんなにアジアについての知識があったわけでもなく、またその知識が正確であったわけでもない。だからヘーゲルだって今から見ればずいぶん勘違いなことも言っている。しかしヘーゲルの世界史を形成する大きな概念は比類のない深さをもって聞くものを納得させる重量感をもっている。知識や情報の乏しさを超えて、いまも驚きを与えるような世界史の概念をヘーゲルは持っていた。それは何故だろう。そこで吉本は、同じ疑問をマルクスも抱き、ヘーゲルに対してこいつだけはもの凄い、こいつだけは別格だと感嘆しただろうと考えます。そしてついにマルクスは、その驚嘆すべきヘーゲルの洞察力の秘密を見抜いたんだというわけです。何を見抜いたのか。それは概念とか観念ができあがる秘密をヘーゲルは知っているんだと見抜いたんだということです。その秘密とは何か。現実とか現象とかいう私たちの周りに起こる無数の事柄を、あらゆる生命体の中で人間だけが観念にしていきます。その観念同士の関係が論理だと思います。すると観念とか概念とか論理とかの目に見えない領域は、人間にとって第二の自然のようなものです。もしこの第二の自然たる観念の世界が大きく根本的に誤っていたら、人間は大規模に過ちを犯しながら歴史を作ることになります。実際、現今の世界恐慌を見ても、共産主義国家の恐ろしい内実を見ても、宗教のもたらす戦争の残酷さを見ても、人類が観念の誤謬に引きずられて犯す巨大な過ちというものはたくさんあります。人間は観念を必然的にもち、もつがゆえに巨大な過ち、巨大な愚かさを積み重ねてきたどうしようもない特異な生命です。だったらそもそも観念が誤りであるかそうでないか、吉本の好きな宮沢賢治の言葉で言えば、ほんとうの考えとウソの考えはどう分けられるか、それが実験によって分けられるように疑問の余地なく分けられたら無駄で愚かな争いはなんくなるのに、という根本的な疑問というものが起こります。それは観念が形成される初源にさかのぼっての人間という不思議な生命の秘密の解明です。ヘーゲルは多くの情報や知識を知っているがゆえに、ほんとうの考えだととマルクスが驚嘆した考えを形成できたわけではない。ヘーゲルは観念の形成の秘密を洞察していたために、これがほんとうの考えじゃないかと百年二百年後の後代にも感嘆させる概念を生み出すことができた。その秘密をマルクスヘーゲルの疎外という考え方にあるとみなした。言い換えると人間だけが観念を生み出す、その形成の原理的な考え方はヘーゲルの疎外という考え方しかありえないとマルクスは考え詰めたということです。ヘーゲルの意思論と呼ばれる観念領域全体に対する思想の根底に疎外の概念がある、それがどのような概念かをマルクスは見抜くことができた。その時点でマルクスの思想は観念領域の総体の把握というヘーゲルの思想を受け継いでいます。特に原理としての疎外の概念を受け継いでいるわけです。マルクスヘーゲルの疎外という非常に抽象的な概念を、これ以外の考え方はないという意味で継ぐと同時に、それを自らの思想として組み替えていかざるをえなかった。それは資本論に打ち込む晩年のマルクスではなく、若い日のヘーゲルの思想と格闘しているマルクスの課題です。そして吉本もマルクスと同様に疎外という原理的な概念を受け継ぎ、それを自分の思想として自分の第二の肉体のような観念にそぐうように組み替えていかざるをえなかったわけだと思います。それが「心的現象論」の特に序説の中に注ぎ込まれています。マルクスヘーゲルの疎外の思想を組み替えてどのように自分の思想にしていったか。マルクスは若い時代にギリシャ哲学の自然哲学に没入していた。自然とは何か、それは人間とどういう関係で存在すると考えたらいいのか、その問題を原理的に追及したくて若いマルクスギリシャ自然哲学を勉強した。そのマルクスの資質のこもった観念の肉体がヘーゲル疎外論に激突した。そしてマルクスヘーゲルと共にいわば時代的にもっている、この世界の総体を一身で暴こうという衝動がそれを全社会、全歴史の思想にまで駆り立てていったと思います。しかしマルクスにはたぶんヘーゲルにない感性のようなものがあったんじゃないでしょうか。よく分かりませんが。それは自然というものに対する感性です。吉本の「カール・マルクス」という本の最後の方にこんな一節があります。「しかし、かれら(いわゆるマルクス主義者)は、<人間>と、人間が欲するといなとにかかわらず形成してしまった<社会>とを、徹底的に<自然>そのものに解消するというマルクスの<思想>のおそろしさをとうてい理解しているとはおもわれない。すべての思想は、その中枢にこういうおそろしさをもっていることをしらぬ<マルクス>主義者などは、ごまんとあつまっても解釈学を、いいかえれば学問的屑をつみかさねるだけである」ここで言われているマルクスの思想のおそろしさというものは、マルクスが情報や知識によって獲得したおそろしさではないと思います。それはなぜか若いマルクスが最初から分かっていた洞察です。ヘーゲルもそうであったように。ここには思想家とか文学者とかあるいは一般人という枠を超えた、人間とその観念の興味の尽きない課題があると思います。人間と社会とを徹底的に自然そのものに解消する思想、ということは人間と社会とを人間と社会の歴史を、その一部にすぎないとみなす自然史というとらえどころのない膨大な時間の中に解消することです。いわば宇宙の中に人間と社会を放つことです。当然人間の観念も宇宙に放たれます。このなんと呼べばいいのかわからない感性がヘーゲルのすべてを国家の永続性の中に収斂させる思想への異和感マルクスにもたらしたものなのかもしれません。そこまで思想の成り立ちを追いつめると幼児、胎児の頃の感性の起源に関わってきます。興味は尽きませんが、どう考えたらいいのか見当もつきません。この自然という存在を膨大な背景としてみて、その中に人間の存在をみて、人間と自然の関係を疎外の関係とみて、その中に観念の形成をみて、観念の形成の発展としての全観念領域の総体をみて、その時間的な移り行きとして世界史をみるという、それがマルクスの思想の総体性であると吉本は考えたと私は思います。しかしマルクス資本論を書いて資本制のいまも続くこの社会の分析を行い、人間史の生産史を自然史に近似した歴史として土台とした世界史の概念を確立し、その世界史の思想としてプロレタリアートが権力を力ずくで奪う革命の概念と共産主義の歴史段階という思想を提出しました。この経済政治における思想家としてのマルクスの登場は、人間にとって観念が第二の自然とすれば目の前のすべてを揺り動かし崩壊させる大地震のような衝撃を時代を超えて多くの人に与えたと思います。抑圧を感じている大多数の社会の人間にとって、これほどの徹底的な動かしがたいと感じられる信頼のおける解放の思想は空前絶後だからです。したがって経済政治革命の思想家としてのマルクスの像が巨大なのはいたしかたない。またマルクスの巨大な自然と人間的な時間を前提にした思想を、わが人生の生きがいの中の凝縮したいという衝動がマルクスを知った人々に生じるのもいたしかたがないかもしれません。しかしそれはマルクスの思想とは違うと吉本は言い切ったのだと思います。最後に自分らしくちっぽけな話題で終わりたいと思います。私はよく電車の中で人の視線を感じます。それはいわゆるガンをつけてくるようなヤクザっぽい男の視線だったり、私に好意を寄せているかもしれない(*/∇\*) きれいな女性の視線だったりします。しかしいざちゃんと相手を見ると、ヤクザではなく新聞を読んで私など気にしていないサラリーマンだったり、居眠りしているおばちゃんだったりします。みなさんはありませんか、そういう恥ずかしい誤解の感覚。私はきっと「見られている」という被害感、受身の感覚が無意識にあるのだと思います。見られているというのは、なにかを私が誰かに考えられているということではないでしょうか。私は考えられている、私は規定されている、私は裁かれている、私は決められている、そういう受身の被害の感覚です。吉本によればこういう受身の被害感というものが、心の障害といわれるもの全般に共通する感覚ではないかというものです。だとすれば見られるという被害感は、自分が見返す、自分が捉える、自分が自分の観念の深い納得がつくように世界を見るということでしか乗り越えることは難しいんじゃないかと私は思います。ヘーゲルのような偉大な思想が存在すると、時代はヘーゲルに見られるわけです。マルクスが見返すまでは。しかしマルクスが時代を見ると、時代はマルクスに見られます。観念という宿命を背負った私たちは、どんな巨大な思想であれ、共同の幻想であれ見返すことをしないと自らの被害感の中に閉じ込められる、あるいはそういう資質を持った人にとってはそうなんじゃないかという気がします。