「殊にいささかでも、自らの精神について何らかの苦闘を経て来た者は誰もが、思想といふものが如何にして形成され、如何にして発展せられるかを知ってゐるだらうし、そうすれば、幼稚な無関心でもって、思想と人間、現実と理論との必然的な関連や、微妙な断層を等閑に付することはしないであらう、と思はれた」(カール・マルクス小影)

思想というものはなんらかの形で人が個に追いやられ、追いやられた孤独の中で自分にとっての世界を回復しようとするものだと思います。だから個に追いやられたというのがいわば思想の出生の秘密であって、その哀しさというものが思想にはつきまといます。それが分かるということが精神について何らかの苦闘を経る、ということじゃないでしょうか。

おまけです。石川啄木について書いてある文章です。


「食うべき演劇」             吉本隆明
(略)
こみ合へる電車の隅に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ

鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩むものかも

実務には役に立たざるうた人と
我を見る人に
金借りにけり

気の変わる人に仕へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを

打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ

誰が見てもとりどころなき男来て
威張りて帰りぬ
かなしくもあるか

うぬ惚るる友に
合槌うちてゐぬ
施興(ほどこし)をするごとき心に
                (「一握の砂」)


 啄木の自嘲にもかかわらず、こんな作品だけがいまも古びない古典であり、実現された理想の「食うべき詩」だといってよい。これは運命の皮肉でも何でもない。同時代の詩歌と比べてみればすぐにわかるが、<知>の空隙に誰にでもある一瞬間の心の動き、その瞬間を過ぎればもう忘れ去ってしまう心の動きを、これだけ平易な言葉のうちに気づいて描きとめた詩人は、ほかに数ええるほどしかいなかったのである。言葉遣いが平易だということと低俗ということとは、まったくちがう。これらの詩につなぎとめられた心の動きは、時代の社会の無意識にひそんだ質の高い<知>の劇なのだ。ただその心の動きの背後にあるものが、物質的な貧困からくる生活苦の心の揺らぎからきている点が異質な点をのぞけば、現在でも新鮮な高度な質をもった心の瞬間であるといえる。