「人はしばしば論理が現象を説明することの出来ないことを以て、論理に対する軽信を述べるが、僕の見解によれば、論理なるものは、現象の説明といふ責任を当初から負ってゐるものではない。若し、論理が何らかの役割を果すべきものとすれば、それは、すべての動因を原理的なものの基本反応に還元し、その基本反応の組み合わせを以って普遍的であり、同時に、近似的であるところの現象に対する一つの法則を獲得するにある」(カール・マルクス小影)

これはこの文章に続く文を読むと分かりやすくなります。「若し現象を論理的に解明しようと欲するならば、その基本反応に若干の偶然的要素を加へて、各人がなすべきところのものであると思ふ」つまり現象というものには様々な偶然的な要素が混入している。しかしその現象から偶然的な要素を排除して、原理的な要素を抽出し、その原理的なものの基本反応とその組み合わせという作業を行う。それは論理によって行うわけですが、それを繰り返すと法則性というものをさらなる抽象化として導き出すことができる。こういう言い方は吉本が専攻した化学の考え方からきているような感じです。しかし法則性が導き出せたとしても、それは即座に現象の説明になるということではない。なぜなら現象には様々な偶然的な要素が入っているからだ。だから法則性は現象に対して普遍的なるものであるが、同時に現象に対しては近似的、つまり偶然的な要素という膜を隔てて近づいたものという感じである。近似的だから法則性や論理がそのまま現実を説明できなくても、それは論理の責任ではないし、論理にはそもそも直接に現象の説明をする責任なんてない。論理はあくまでも抽象化によって法則性を導く責任を果たすものだと言っているわけです。だからマルクスの論理の通りに歴史が進まないから、つまりロシアが崩壊したりしたことを指してマルクスの思想は誤りだというような単純なことは言えない。マルクスでもヘーゲルでもその論理的な業績の批判は、原理的な論理の領域においてなされなければならない。そして吉本はその批判を行うために、自分の現実の現象、つまり日本の現実から自分で原理を抽出し、そこでマルクスヘーゲルに向き合うという大変な気骨の折れる仕事に没入していきます。そして時代はめぐって今度は吉本自身がその業績を周囲から様々に批判されます。しかし同じことです。吉本を批判するには批判者自身が自分の現実から原理的な思想を組み立てる努力をしなくてはならないわけです。しかしそんな大変なことをする人はめったにいないわけで、吉本もまた薄っぺらい非難と薄っぺらい賞賛の中で孤独であるのだと思います。おまけです。インタビューに答えて中島みゆきについての批評を語っています。これを読むと「専門家らしくない人格になりたい」という吉本の言いたいことが分かると思います。 
インタビュー「理屈のない面白さ」がいま最も過激である。
吉本隆明中島みゆきのファンで、去年〔1985年〕、コンサートに行ったそうですね。)というインタビューを受けての答え。(略)
音楽的才能があろうがなかろうが、誰でも、十二、三歳とか十四、五歳の頃というのは、なんとなくハーモニカの一丁でも吹きたくなるとか、作曲とは言わないまでも、自分が歌を作ってみたくなる、そういう一時期というのがあるわけです。誰にでも、そういう時に瑞々しい詩を書き綴って、曲らしきものをつけてみて、自分で歌ってみたいという、とても普遍的な時期があるんですよ。その時期を過ぎて行ってしまうと、受験するんだとか、イロイロと違うことに目が向いて行く。ところが、中島みゆきという人は、その時期をそのままにずーっと育てて行ったと言いましょうか、自然に育ててきた歌い手であり、歌の作り手であるみたいな人。そういう意味で、とても自然で、そのことの典型的な人のような気がするんです。他の人は大なり小なり、そこに音楽の専門的な勉強をして、何か別の要素を取り入れたりするんだけど、十二、三歳の、誰もが持っている感じ方をそのまんま大きくしていると言いましょうか、その時期にやったものをそのまま丁寧に保存している。他の人にはちょっとないと思いますよね。 いまは、それどころか、自分は動いたりしないで、ただ座って歌ったりするだけで広い(コンサート)会場の空間を全部満たしちゃうんですから、そういう力量のある人は、美空ひばりぐらいじゃないでしょうか。美空ひばりにはそれが出来るけど、それに次ぐのは中島みゆきじゃないでしょうかね。レコードを聴くのと(コンサートに)言って見るのとは雲泥の差ですね。初期の頃と、資質は違わないんだけど、力量がまるで違います。 中島みゆきが、誰にでもある時期をどう育ててきたのか考えてみますと、結局、どういう分野でも、だんだんやっていくうちに、それが一種の専門になっていくわけでしょ。専門になっていった場合、その人はひとりでに自己規定することが生じてくるわけですね。専門になってくると、人もそういうふうに遇してきますし、レコード会社がそう遇するということがあるわけですから。そういう自己規定していくことはいいことなんですけど、専門でなければいけなくなる。「これが自分の専門なんだ」ということになってゆく。いいことなんだけど、同時に、それはある種の萎縮させる作用がどこかで起こっちゃうんですよね。それに対して、また、それを壊していこうとする。それを繰り返し出来る人じゃないんでしょうか。 日本の社会だと、すぐに、人を専門家にさせたがりますから、その作業はとても難しいことなんです。でも、中島みゆきという人は、専門家になっちゃっている自分をいつでも壊せる人で、そのことを、絶えず作曲とか歌手の面でやってきたんじゃないでしょうか。僕はそんな気がします。