「ランケの歴史哲学は、支配者の歴史哲学である。Uber die Epochen der neueren Geschichte (より新しい歴史の時代について)を見よ。支配者の意思により動かされた諸事件を記述することにおいて、彼の筆は如何に細やかであるか。ここにはあらゆる人間性の種子は疎外されてゐる。マルクスがその史観から〈人間〉を疎外することによって、却って人間を奪回したことと比較せよ。ランケは、偶然を連鎖することによって必然と考へようとしてゐる。」(原理の照明)

ランケってのはぶっちゃけ読んだことがないです。だから吉本のランケの批評が正確かどうかわかりません。だから一般論でいうしかないですが、支配者の側から書かれるのが歴史というものだから、それを細やかに追うだけの歴史観は駄目だと吉本は言いたいと思います。
歴史というものを分かりやすくするために、最近の日本の社会に絞って考えて見ます。例えば小泉が首相で竹中が大臣だったごく最近の時代はどう描かれているか。それを描いていくのはテレビや新聞のマスコミです。郵政民営化選挙に至る、そして現在までに至る政府べったりの報道や記事の山が「支配者の意思によって動かされた諸事件」の現代的な見本です。これを肯定的に細やかに記述するとしても、また否定的に記述するとしても、そこにはあらゆる人間性の種子は疎外されている、そう吉本は考えます。
なぜそう考えるのか。それは確かに政治的な諸事件は支配者の意思で動かされるとしても、歴史という概念を支配者の意思の連なりで描くことはできないということだと思います。支配者の意思というものが動かせる範囲というものがあります。逆にいえば支配者がいかに独裁的でもどうにもならない社会の移り行きというものがあると考えます。その大きな社会の移り行きという流れの上に、時々の支配者の意志があり、また被支配者の反抗の意思があり、屈従する民衆の生活がある。そしてけして歴史という概念の中に登場することのない人間の個々の内面というものがあるわけです。それが人間性の種子と吉本が呼んでいるところだと思います。
マルクスはその大きな社会の移り行き自体を取り出すために、<人間>を疎外した史観を作ったという意味は、さまざまな人間たちの意志と、偶然の連鎖によってできているように見える社会の移り行きの中に、あたかも自然の移り行きに喩えられるほどに人間のその都度の意志を超えて進んでいくものを経済に、生産力の発展に見たということだと思います。生産力の発展が生み出す経済の変化、それが生み出す社会の変化という移り行きは支配者の意思でも、個々の人々の意思でもどうすることもできない必然の推進力をもっている。この基盤を把握できれば世界史という概念が成立するというのがマルクスの歴史の概念じゃないでしょうか。
では人間を疎外して作る史観、唯物史観と呼ばれるマルクスの史観が、なぜ「却って人間を奪回した」と考えるのか。それは人間性を抑圧された労働者が資本家に対して闘い、権力を奪う道筋を示したからか。それは当時の一般的な左翼の見解ですが、吉本の言う意味は違います。吉本はマルクス唯物史観マルクスの思想の全体性の中の一部だとみなしています。マルクスが本当に世界の全体として描きたかったものは、唯物史観という世界史の基盤の上に、人間が観念として生み出す領域の総体を関連づけたものだったと考えていると思います。それはマルクスが思想の師とみなしたヘーゲルの意思論と呼ばれる精神についての全思想を真に生かそうとしたということです。
人間の内面の歴史というものと、モノとしての自然に対して人間が働きかける経済の歴史と、その総体としての歴史を世界史と本当はみなしていて、それはヘーゲルの史観の否定ではなく拡張なんだということではないでしょうか。その道の半ばで倒れたのがマルクスの生涯であると。そして吉本はマルクスが倒れたところから歩き出そうとしたのだと思います。だから唯物史観から人間を疎外したのは、内面史としての人間の歴史を経済史とは次元の違うところに設定できることをマルクスが知っていたからだと考えます。それを人間の内面をそれ自体で総体として捉える可能性を却って残したと言っているのだと思います。
「ランケは、偶然を連鎖することによって必然と考へようとしてゐる」というのは、ランケというのを読んだことないのになんですが、たぶん自然史に等しいとみなされる経済の歴史というものと、人間にとっての必然である総体としての内面というものを問題にしないで、支配者の意思で歴史が必然として動いていくとランケは言っているということじゃないでしょうか。支配者の意思はある種の共同意思です。つまり共同体がどうあるべきかということについての意思のあり方のうち、権力を持った連中の意志だということです。それは歴史の部分でしかない。部分的なものをいくら集めても連鎖させても全体を構成しない。だから必然にはなりえない。必然としての世界史を描くには、マルクスの方法しかないと吉本は思っているわけです。
思想というものの頂は世界史なのかもしれないですね。あるいは世界史という概念を可能にするもの、あるいは不可能を宣告するものが思想というものの真骨頂といえるような気がします。しかし私たちは世界というものからあまりにも遠くにいます。その距離が私たちがこの世界から隔てられている距離なんじゃないでしょうか。