「マルクスの歴史哲学が提示したテーゼ。すべて抽象的なるものは現実的であるといふことである」(原理の照明)

抽象的なるものというのは観念に属します。モノではないわけです。現実という概念にはモノとしての世界ということと、観念としての世界ということの双方が含まれています。そして観念の世界は目に見える、感覚的に捉えられる具体性に富んだところから、抽象を繰り返すことによって抽象度を上げて生み出される抽象的な観念の領域までが含まれます。それはこのモノと観念の織り成す世界の総体を捉えきりたい、働きかけたいという人間の欲望が生み出す領域だと思います。例えば国家とか神とか精神とかという観念は極めて抽象度の高い観念の領域に属します。
そして生み出された抽象的な観念はモノとしての世界に働きかけていきます。例えば国家間の戦争という現実は、国家という高度に抽象された観念が生み出されない限りありえないものです。国家間の戦争はモノとしての自然や社会を破壊し、モノとしての生身の人間を殺戮します。この現実は抽象的な観念が存在するゆえに生み出される現実です。だから抽象的なるものは現実的であると考えるんだと思います。
ただこれはひととおりの意味であって、難しい問題はさらに掘り下げれば存在すると思います。それは観念を生み出すものを精神と呼ぶとして、何故精神は、あるいは人間の精神だけが他の動物と違って観念を生み出すのか。いったい精神というのは本質的になんなのか、という問題です。
するとそこにはモノとしての世界を次第に高度に抽象して生み出される観念の世界という、モノから高度な観念へという方向だけで精神というのは捉えられるのだろうかという疑問が湧くと考えます。逆に精神の本質が初源的な思念をいわば無から生み出すのではないか。つまり人間で言えば胎児、幼児、少年という初源の時期に、人類で言えばアフリカ的というべき初源の段階にすでに、精神の本質であるなんと呼んだらいいかわかりませんが初源的な思念のようなものがあって、それがいわばモノから観念へということとは逆の方向から、初源的な思念から観念の秩序へという方向の観念の作られ方を存在させてるのではないか。そういう疑問というものもありえると思います。そういう疑問もまた、抽象的なるものは現実的であるという考えの中に含まれるとみなすこともできます。
この社会で暮らしていて、いろいろキツイことに遭遇すると、私たちはこの現実を把握したいと考えます。現実が分からなければ、海図もなしに荒れ狂った海を渡るようなものだから。しかし同時にキツイことに耐えながら、自分の魂の中に原型として信じられるような目には見えない核のようなものを求めようとします。そして宗教にそれを見出すような人もいるわけです。
もしこの社会現実の把握という知の作業が時代を抜くほど優秀であり、また魂の原型を求めるという意味でも徹底的であった人物を想定したとして、その人は魂と現実をうまく繋いで生きることができただろうか。その問題を吉本は例えばシモーニュ・ヴェーユを追跡するなかで掘り下げています。するとそういう人は例外なく悲劇的だということになるような気がします。逆に言えば悲劇であるためには現実の把握と魂の把握において徹底的であったという人生が必要だということもいえます。では悲劇とは何か。たぶんそれは愚かという意味ではなく、この世界の未知に直面して途方にくれるような、途方にくれながらも前を向いて進んで老いてぶったおれるような、そんなことじゃないでしょうか。最近出た吉本の講演のDVDを見ました。吉本は車椅子に乗って舞台にやってきて講演をしていました。またカメラが捉えた自宅で歩く姿は、腰が直角に近く曲がったおばあさんのような姿でした。しかし吉本の語る言葉は輝かしい。それが吉本という悲劇の輝きです。

おまけです。「人間力」という吉本の晩年の概念がこの文章でふっと分かるんじゃないでしょうか。


「10年先の、僕の恋人たちの風景」
吉本隆明


 知合っていることが誇らしく感じられるキャリア・ウーマンがひとりいる。いまの職業は医大附属の看護学校の先生だ。娘さんのときからその医大病院の看護婦さんを半世紀ほども勤め、おなじ病院の婦長さんをやった後は、看護課長になって病院のなかの看護婦さんの地位をととのえ、医大のなかで存在権を認めさせるために働いた。その間に法政大学の二部の史学科をやり終え、また浄土宗の僧侶の資格をとって、老後は地方の寺院の檀家のある村で、保健衛生の仕事をしたいなどと構想した。その気になれば女史、女傑、エリート婦人の資格に欠けるところはないのだが、ご本人は目立たない普通のまめな初老の婦人という印象で、やや身のこなしが鈍くなった気がするが、相変わらずよく他人の世話をし、働いている。
 わたしがこの人の底力を見たとおもったのは、年少の知人が心臓の大手術をしてすぐ、重篤な状態で手術室を出てきたときだった。もうろうとした意識の状態で、病人はわめいたり、酸素マスクをもぎ外したり、半身を起き上がろうとしたり、うめき声や悲鳴を上げたりで、あられもない振る舞いだった。挙句のはてに深夜に奴を呼んで来てくれなどと言うので、仕方なしにぶつぶついいながら医大病院に駆けつけたりした。その看護課長さんも病人に呼びつけられて、やって来ていた。わたしなどが酸素テントのなかに首をつっ込んで「おい来たぞ、大丈夫か」などと呼んでも、あらぬことを口走ったり、うなり声をあげたりで、手がつけられないだけなのだ。
 ところがこの看護課長さんが、「大丈夫ですよ、すぐよくなりますからね」などといいながら、脈をみるように手首をとったりすると、とたんに病人は大人しく静かになるのだ。「こん畜生」とおもうのだが、ただおろおろと不安な気持ちを内心で抑えて、平静を装っている家族の人やわたしなどの造り声とちがって、その看護課長さんが、ベッドのそばに居るだけで、部屋のなかが落ち着いた安堵感に包まれるのは確かだった。わたしたちでさえ安心感をもつのだから、まして無意識に死の不安と格闘している病人が、なお更そう感じるのは当然だと思えた。わたしは内心でその看護課長さんの存在感に舌をまいた。世の中にはこんな人がいるんだなと実感したのだ。
 いつもは「らしくない」のに、そのことに入ると底知れない力を感じさせるようになれたら、というのは、専門家にもなりたくないし、またなれもしないが、でも長いあいだ仕事だけはつづけ、生活だけはやってきたわたしなどには、じぶんがじぶんに描いてみせる、せめてもの理想の姿だといえる。でもなかなかそうはいかずに、専門家ぶったり「らしく」振る舞ったりしては、あとでしこたま後悔にさいなまれる。長いあいだの生活はその繰り返しのような気がしてきた。 もう十年もたった後、職業の場所でも、遊び場や消費の場でも、この看護課長さんみたいな女性に、いたるところで出会えるようになるかもしれない。駄目かもしれぬが、そのときでもわたしは「らしくない」で、生き生きとしていられたらと思うのだ。                               

「TRAVAIL CAREER」1986年1月23日号