「〈僕の歴史的な現実に対するいら立ちの解析〉①要するに、根本にあるのは、僕の判断、正当化してゐる方向に現実が働いてゐないといふことから来るもの。②具体的には世界史の方向。③日本における政治経済の現状。僕が現実を判断する場合に、現実なるものが二重構造を持ってゐて、この断層が決定的である」(断想Ⅰ)

これは吉本が現実に対していらだっていることの要因をあげているわけですね。しかしまずもって「歴史的な現実にいらだつ」ということがピンときませんね。このあたりで分かったようなふりをすることが嫌です。分かったようなふりをすれば、知の中に入ることができます。入れば世界史がどうたらとか、政治経済がうんちゃらとか語ることもできましょう、それなりの雑知識で。でも、あなた歴史的な現実というようにこの現実を考える瞬間が今の生活の中にありますか?さらにそれにいらだつということがマジでありますか。俺はないし、信じられないですね。歴史というものが実感としてまったくない。知識としてはありますよ。信長がどうしたとか、明治維新がどうしたとか、小説や大河ドラマの知識として語ることはできます。しかし今の現実が歴史的な現実だと感じることなんかできませんよ。老人ホームが土石流で流されたらしいとか、総選挙が始まるらしいとか、石田純一が誰かと交際してるらしいとか、そういうことが現実という感覚でしょう。つまり現実という言葉が、私たちの身の回りのお母さんがどうしたとか、職場の上司がどうしたとか、彼氏がどうとか、娘がどうとかいうことの外側の社会を指しているわけなら、そんなニュースの切れ端が現実ということの中味なんだと俺は思う。カッコつけないで言えばそうじゃないでしょうか。歴史的な現実への苛立ちというような言葉に対して、なんか嬉しそうに自説を語り始めることができれば、知識人のグループに入ることができます。三流でも四流でもとにかく入ることはできるわけです。また歴史的な現実といったような日常の言葉から離れた言葉に対して、眉をひそめ、生理的に受けつけない拒絶を示すことができるならば、知識というような世界から無縁の生活人のグループに入ることができます。あなたは町内で浮くことはないし、宴会でしらけさせることもない、彼女にウザがられることもない。ぶあつい生活の中に生きるグループの一員になれるから。しかしね、知というものと生活というものの目には見えない断層を感じ、しかし知にも生活にも惹きつけられる不幸な感性というものはあります。それが吉本隆明の感性の本質だと思う。「現実なるものが二重構造を持っていて、この断層が決定的である」というのは、根本的にはそういう感性がなければ分からないことです。この断層は決定的だから、つまり簡単にどうこうできないから、吉本だってしょうがないから知は知として、生活は生活として生きるわけです。それは人格自体を二重構造にしていきます。それもまたしかたがない。あなたが飯を自分で食っていき、さらに自分の妻子にも食わせなきゃならない、もっと言えば従業員や部下の生活まで背負う立場にあって、なおかつ芸術だの思想だのに骨にからまるほどの執着をもっているならば分かるでしょう。その人格の二重構造ってものの孤独や損や弱さが。要するにぱっとしなさが分かると思う。そのぱっとしなさこそが、この日本の中で現実の総体を見る目を持つ、その代償だと思う。しかしそのぱっとしなさに耐えて見ているものがある。それが重要です。それは何か。それは生活から断層をもったまま語られる外部現実の言葉のいっさいを疑い、また外部現実から断層をもったまま語られる生活内部の言葉のいっさいを疑うということです。だから孤立し損をし浮いてしまいぱっとしなくなるわけですが、その果てに断層をもたない生活と外部現実の総体を捉える思想を目指すわけです。ここでより重層性と困難さで勝るのは、生活の言葉を疑うというほうです。生活の言葉を生活の言葉で否定するということが難しいと思います。生活の言葉を知の言葉で否定するのは簡単で、それは共産党系のヤツにでもまかせればいい。しかし、生活の言葉を生活自体の言葉で深く否定するのはとても難しいし、知ではなく血の流れる問題です。あなたは親の言葉、上司の言葉、夫の言葉、女房の言葉、隣近所の人の言葉、親族のボスみたいなヤツの言葉を深く疑い、それを否定し逆らい乗り超える言葉を見出すことができますか?できないでしょう。なぜならそれはそれなりに重たい実質を持っている生活の言葉だからです。しかしそれが思想の本当の戦場なんだと思う。世界史がどうとかよりもです。身の上相談の内容のような俗っぽい悩みの中に思想の本当の戦場があって、その戦場を通ったかどうかはすぐ分かります。ツラ見りゃわかるんだ。いわゆる苦労の顔ができてるかどうかです。この初期ノートの吉本の文章はそういう意味では分かりやすい。なぜならそれは知の範囲での分析だからです。しかし文学の徒としての吉本はそんな簡単なものではありません。知として語られる吉本ではなく、知としていまだ語りようのない吉本の生活の戦場とその戦歴があるんですよ。それは吉本の知的な業績の中に行間として、思想としていたるところに垣間見えます。それが見えないと吉本はテキストにしか見えないし、また見えないヤツにはすべてがただのテキストにしか見えないんだと思います。それはそいつの思想がテキストにすぎない証明ですね。吉本に人生の命脈はやがて尽きると思います。もはや高齢ですからね。吉本論というのはいろいろあるし、亡くなればまたいろいろ書かれるでしょうが、私が吉本に見るのは断層のない思想をつかむために生活の奥で戦ってきた目に見えない吉本の必死さですね。それは吉本の若き日の詩に書かれたように誰にも見えないし、誰も録することができない。その通りです。でもそれですね、一口に言えば「苦労」です。苦労が思想に命を吹き込み、思想を苦労を背負う多くのふつうの人々の共有物にしていくんでしょう。言い換えれば、生活の中で味わう苦労に、思想の言葉を与えてくれた、それが吉本です。「吉本の遺伝子」というような本が出ていましたが、本当に吉本の思想の遺伝子があるとすれば、そこらへんの知識人よりも、ふつうのおおぜいの人の生活の中にしみわたっていくものだと思います。吉本もそれを望むと私は思います。