「いら立ちといふのは精神の剥離(はくり)感覚である。④僕の判断を実証することが、日本の国において殆んど不可能であるといふこと。⑤僕らの国の権威者によって典型的に表現されている劣等性が、僕に与える自己嫌悪と共鳴現象を呈する。⑥強制的に採用されてゐる日本における経済政策が、貧窮階級の意識的な無視によって行はれてゐること。⑦占有せられた現実。他律的な現実において僕の自律的な判断が占めるべき場所を有しないこと。」(断想Ⅰ)

吉本の中上健次という小説家に対する追悼文をおまけに書きます。私が言いたいことはこのきわめて優れた追悼文の行間にあります。


  「中上健次」              吉本隆明


(前略)わたしはこの世の礼にかかわって、かれがのこした人柄と作品の印象をいそいでかきとめなくてはならない。中上健次の文学に思想としての特長をみつけようとすれば、第一にあげなくてはならないのは、島崎藤村が「破戒」で猪子連太郎や瀬川丑松をかりて、口ごもり、ためらい、おおげさに決心して告白する場面としてしか描けなかった被差別部落出身の問題を、ごく自然な差別の被差別もコンプレックスにはなりえない課題として解体してしまったことだとおもう。これは中上健次の文学が独力でためらいも力みもなくやりとげてしまったことで、その思想的な力量はくらべるものがない。なぜかといえば、いまでもわたしたちの思想的な常識では被差別部落の問題は、外部からするひいきのひきたおしの同情か、内部からする力みかえった逆差別の脅迫によって、差別の壁を高くすることにしかなっていないからだ。中上健次の文学ははじめて、ベルリンの壁のようなこの差別・被差別の壁を解体して、地域の自然な景観の問題にかえした。すると差別と被差別は山の景観に住みつく霊と、平地や海の景観に住みつく霊との区分にほかならないものになってしまう。さり気ないふうを装いながらじつは時代をはるかに抜いたこの達成は、おなじようにさり気ないふうを装ったかれの作品の登場人物たちに魂を吹き入れることになった。試みにかれの作品のおもな系列に登場する人物たちを眺めてみる。かれらは自画像を投影された秋幸をはじめ、道路工事にやとわれた日雇いの人夫であったり、職をもたないで女のひもになって暮らしている遊び人であったり、こそ泥やかっぱらいをやって遊び金を手に入れ、それを使いはたして生きている若い衆であったりする。そしてこんなよれよれの男たちが、みんな高貴な魂や聖なる山霊や地霊をこころにも体にも吹き入れられた神聖な存在なのだ。女たちは酒場のあばずれのような存在で、けもののような性交にふけるのに優しい献身的な愛をもっている。こういう地の底にいながら、高貴な山霊や地霊を背おい、山や平地や海の景観に溶けこむ男女たちが、かぎりなく優しい理想的な愛を与えあう。これが中上健次の文学の立ち姿だといえば、すくなくともかれの作品の主要な特長をつくしているような気がする。かれが苦心し、才能をかたむけて達成した作品の場所は、生前にも高く評価したり、欠点をあげて批判したりすることができた。わたし自身もそうしてきたようにおもう。だがかれが平気な顔をして、あたりまえのようにしずかに達成した文学思想は、どんなに評価しても、しすぎることはない比類のないものだった。被差別と差別の問題は中上健次の文学によって理念としては終わってしまった。あとは現実がかれの文学のあとを追うだけだ。かれの生前には照れくさくて言えなかったことをここに書きとめて、いま追悼にかえるのである。