「虚無からは何も生むことが出来ない。僕はこれを熟知するためにどんなに長く一所に滞ってゐたか!僕は再び出発する。それは何かをすることだ。この世で為すに値しない何物もないように、為すに値する何物もない。それで僕は何かを為せばよいのだと考へる」(エリアンの感想の断片)

今の仕事や勉強や生活が不満で、もっと別の生き方があるんじゃないか。自分が本当にしたいことがどっかにあるんじゃないか。そういう思いに襲われることは誰にもあると思います。吉本もまたそのように自分が本当にしたいことは何だろうと考えたのだと思います。自分探しというやつですね。吉本は考えることの好きな人ですから徹底的に考えたんですけど、考えても考えても出てこないわけでしょう、何を為せばいいのかの答えが。何故出てこないかと言えば、社会や人間を考える時の批判力がとても強いからです。何を為すべきかという時、ふつうは美容師がいいか、料理人がいいか、公務員がいいかみたいなことですよ。しかし吉本はこの世界の全体とか、人間のあり方の根源というような巨大な思考のテーマを手離すことができないわけです。いわば極度の考え過ぎなヤツですね。そんなことまで常に考えてたら何もできないじゃん、そう思うでしょ。そして実際、何もできなくなるわけです。批判力が強いというのは、否定する思考の力が強い。否定する力が強いというのは、疑いが強い。物事が一般に通用する形で存在していることを疑います。その背後、その裏側、その奥底にあるはずのものを暴こうとします。そういう批判力というものは本当に良いものかどうかは疑わしいですね。吉本自身もそう考えています。それは哀しい業のようなものじゃないでしょうか。幼い時の母親との関係の悲劇にさかのぼる、疑う性癖の哀しい起源というものがあると思います。そういう自分の生誕の起源からやってくる止むに止まれぬ衝動に突き動かされて、疑い詰め、考え詰めると、この世で為すに値する何物もないという考えに至ります。それが虚無です。虚無とかいうと大層なことのようだけど、こういう状態は誰でも思い当たるでしょう。特に若いときなんかだと、そういう何もしたくねえ、という状態のヤツは多いと思う。昔ブルーハーツというバンドがあって甲本ヒロトというボーカルの歌う唄の出だしに「吐き気がするだろ みんなキライだろ あああああ〜」というのがあったんですよ。「パンクロック」という唄ですけどね、とてもいい唄です。大人たちの作っている周囲の世界のどこを見ても吐き気がする。みんなキライだ。思いあたるでしょアナタも。若い時だけじゃない、今だってそうでしょ。分かってるんだよこっちゃあ(+o+)この虚無から生じる現象はひきこもりですね。だから吉本もひきこもりだったわけです。ひきこもりということの中には、誰に頼んだわけでもないのにこの世界におぎゃあと産み落とされて、物心がついてみたら周囲のすべてが吐き気がする、みんなキライだという気持ちをもってしまう、そういうヤツはどうしたらいいんだという問題があります。それは無理やり人間関係や仕事に引き出そうとしても必ずしもうまくいかないぞと吉本は言っています。そこには産まれてきたこと、母親との関係、業のような批判力が周囲を否定すること、そういう自分の中に骨に絡まるように存在する宿命を自分自身がどう受け入れるかという難しいテーマがあるということです。そこまで考えれば、人間はみんな多かれ少なかれひきこもりなんだと言えると思いますね。そしてそれを自覚しているかどうかが違うんですよ。自覚してないで、自分はすでに堂々と社会に適応して活躍してると思っているヤツが、ひきこもりのヒッキーに説教をするんだと思います。しかしそんなヤツはヒッキーにとっては吐き気のするキライなヤツであるだけでしょう。では何がひきこもりの底にいるヤツ、虚無の中で批判力だけは手離せないヤツに届くのか。もう生きたくない、生きることがどういうことなのか分からない、そういうヤツに届く考え、言葉はあるのか。吉本は自らのひきこもりの中で、虚無からの脱出を考えます。吐き気がする、みんなキライ状態の吉本に奥深く届いた言葉は親鸞の言葉だったと思います。それは吐き気のしない数少ない言葉だったんでしょう。親鸞から吉本が嗅ぎ取ったものは、私が思うには自分の批判力に突き動かされて考える思考の世界を唯一の世界だと思うな、ということじゃないかと思います。それは自力の世界に過ぎない。その向こうに世界がある。それは他力本願、絶対他力という概念の示す世界です。そして他力という概念に目覚めると、人間が生きるのは自分が何を為すか為さないかという自力の世界、あるいは主観的な判断の世界の外側から、自分の主観を動かす世界に目覚めます。いわば客観の世界に目覚めるわけです。それは関係という概念の深さを教えます。この世界は自分が自分と対話する主観性の世界、あるいは後の吉本の概念で言えば自己幻想の世界だけでできているわけではない。それがいかに真剣で深く掘り下げたものであるとしても、それは世界の要素の一つに過ぎない。この世界の本当のあり方は、まだ誰もその全体を把握していないある絶対的な客観的な関係によってできている。その真の関係の世界が人間の主観的な世界を突き動かすときに、人間にはそれを必然と感じることができるだけだ。あるいは宿命、運命と。つまり強いられるということです。強いられるということがありうるのは、人間の自力の世界の向こう側があるということでしょう。この他力の世界への目覚めが吉本をひきこもりの袋小路から抜け出させた大きな要因だったと思います。それはどういうことか具体的に言うと、敗戦の時の吉本の考えによく現れています。突然の敗戦によって吉本の突き詰めた思考の世界は衝撃を受けました。吉本の主観的な思考の世界の倫理によれば、敗戦になれば生きていることはできない、徹底的なゲリラ戦によって死ぬまで戦い通すということになっていたでしょう。しかし周囲の日本人も吉本自身もそれはできなかった。それが衝撃です。また屈辱感であり無力感であったと思います。戦争に負けた後の日々、内面の世界は方向を見失い、すべてを否定する考えが渦巻いているのに、海や空は戦争中と同じように存在している。また自分も何も面白くないはずなのに、周囲の冗談にふと笑ってしまうこともある。それがすごく異和感があり、恥ずかしくてしょうがなかったと吉本は述懐しています。しかしそのちぐはぐな体験が吉本に何かを会得させているわけですよ。それは自分の主観的な世界の外側との関係の重要さを会得させているんだと思います。その外側に吉本の概念である大衆が存在します。為すに値する何物もない、というだけではなく、為すに値しない何物もないとも書くのは、吉本の大衆への感覚が書かせていると思います。絶対的な価値というものは見出せないが、価値のない人間や人生があるとも思えない、そういうことです。そして甲本ヒロトの唄の主人公が吐き気がする、みんなキライだという後に、マジメに考えた、マジメに考えた、僕パンクロックが好きだと歌うように、吉本も文学が好きだったわけです。だから大好きな文学を、他力の世界、この世界の真の全体の中に置きなおそうという試みが始まります。まぁなんとなくつながりができたような感じなので、途中から何を書いているのか自分でも分からなくなりましたがこれで文章を終わりにします(= ^ ^ ゞ