「帝王はいまも神権につながれてゐる。あの荘厳で無稽(むけい)な戴冠式や即位式。それから支配者の位置につくものが僧侶の前で宣誓する風習。神権と王権。立法と行政とが、神と帝王から離れて民衆の手に移されるのは何日のことか」(エリアンの感想の断片)

宗教から地上の掟である法が分離して国家を生み出していくとすると、宗教と法にはへその緒のようなものが残ります。そのへその緒が切れるときが立法と行政が民衆の手に移るときです。それは立法と行政、いわば共同体のルールというものから一切の権威付けというものが消え去るときです。それはどんな状態かというと、吉本の言葉では町会の役割のようにみんなが交代でいやいやながらやるという共同体の運営だということです。政治というものがセンセイだの名士だの派閥のボスだの、また専従職の公務員だのがやるものではなく、民衆がいやいやながらしょうがないから回り持ちやるというものに変わるときに国家というものが消えるんだということになるんでしょう。そんな夢のような段階がいつ来るのか知りませんが、そういう状態が社会にとっての理想なんだということを思想として持っているかどうかは、ひとつひとつの時代の選択の問題としても大きな意味を持っています。それは思想的な読み切りの問題です。将棋でも碁でもそうですが、より大きく遠く読み切るものが最後に勝つわけです。おまけです。敗戦直後の吉本の♪吐き気がするだろ、みんなキライだろ〜の歌声を聴いてください。


「思想的不毛の子」     吉本隆明 (中略) 


わたしたちの知識人は、レジスタンスの運動をまったくもたなかったし、また、自分の肉体を不具にして戦争への参加を個人的に拒否するという思想体験ももたなかった。あったのは「要領よく」戦争への参加を逃れた知識人だけである。これは消極的な抵抗でさえありえなかった。
 それが、かえって反動的に、戦後のフランスのレジスタンス文学にたいする無条件の讃美となり、ポーランド映画にたいする論議となった。しかし、これをめぐっての論議を展開して批評家たちは、すべて身のほど知らずの、また、おのれを忘れた者にすぎない。自分たちが、どんな思想的不毛の子であるかを忘れて、ただ革命を論じたにすぎない。そこには、戦争にたいするネガティブな抵抗すらありえない知識人の伝統のなかで、ヨーロッパの戦争中の抵抗を論じているのだという深い落差の自覚もなければ、ただ転向の思想的体験しか伝統としてうけついでいない世代が、ヨーロッパ的な抵抗を論じているのだという絶望感もなかった。ようするに論者たちは、単なる自己欺瞞の徒にすぎなかったのだ。
 わたしは、断固としてこういう安直な論議に反抗し、ポーランドの連中、フランスの連中にあこがれるよりも、みずからのみじめな思想的風土にかえり、そこから出直し、そこを踏みしめなければ致しかたがないことを強調し続けざるをえなかったのである。
 わたしは、敗戦のとき、動員先からかえってくる列車のなかで、毛布や食料を山のように背負いこんで復員してくる兵士たちと一緒になったときの気持ちを、いまでも忘れない。いったい、この兵士たちは何だろう?どういう心事でいるのだろう?この兵士たちは、天皇の命令一下、米軍にたいする抵抗もやめて武装を解除し、また、みずからの支配者にたいして銃をむけることもせず、嬉々として(?)食料や衣料を山分けして故郷にかえってゆくのは何故だろう?そういうわたしにしても、動員先から虚脱して東京にかえってゆくのは何故だろう?日本人というのはいったい何という人種なんだろう。
 兵士たちをさげすむことは、自分をさげすむことであった。知識人・文学者の豹変ぶりを嗤うことは、みずからが模倣した思想を嗤うことであった。どのように考えてもこの関係は循環して抜け道がなかった。このつきおとされた汚辱感のなかで、戦後が始まった。
 徳田球一宮本顕治ら非転向の共産党員が十数年の獄中生活から解放されて、運動をはじめた。しかし、空白の十数年をとびこえたその運動は、戦争体験をなめつくして、おなじ十数年をすごしてきた大衆とのセンスのちがい、落差が著しく、とても問題にならなかった。わたしたちは、すべてを嗤うことにより自分自身を嗤うという方法で、みずからの思想形成をはじめるほかなかった。この方法のほかにたよるべきものはなかったのである。(中略)