「神話のすべての特質のうち、何れの神話も持つひとつの性格、それは象徴性といふことだ。神話の象徴性とは、その原始性の産物であり、同時に述語的にはその単純性の産物である。象徴とは常にその原因を向ふ側にもつものでなく、こちら側に持つものであり、それが単純なるものは、象徴的であることの必要且つ充分な証明となるだらう。」(原理の照明)

ここで吉本が神話について考えているのは、やはり天皇について解明したいからだと思います。戦時中吉本は天皇を信じていた。それが生き神様だということを信じていたし、天皇を中心とした秩序を信じていたし、天皇の掲げる戦争の大義を信じていた。ところが戦争は完膚なきまでに負け、天皇は敗北を宣言し、アメリカが占領にやってきた。この心の奥から信じて命をかけようと覚悟していたものを木っ端微塵に否定された恐ろしい経験は、吉本だけでなく当時の日本人すべての経験です。天皇を信じる心、その信じた心を自ら徹底的に分析し、天皇とは何かをつかまなければ、この恐ろしい経験、屈辱的な、自ら考えて生き方を決める自信を根こそぎ奪われる経験を乗り越えることはできない、それは生き残って戦後の社会の中に生きるすべての日本人にとっての課題でした。みなそれぞれにアレはなんだったのか、戦争や天皇や勝利や大義や殉死を信じていた自分たちはなんだったのかを一斉に考えたと思います。そしてそれぞれに出した答えを胸に、生きるのが精一杯の戦後の生活に取り組んでいったと思います。だから吉本は特に知的に高級なことを考えているわけではない、近所のおばさんおじさんも考えることを強いられた課題を共に考えているだけです。戦争中日本人はみな天皇を真理だと信じていた。しかし戦争に負けてみると天皇は真理ではなく、ひとつの神話であった。神話というものは世界中にある。なぜ人は神話の中に入り込み神話にいかれるのか。それが解明できるのは神話にいかれて、しかも神話の外に叩き出された者たちのみだ。すなわち負けた神国の人間だけだ。では神話とは何か。それは共通して象徴性という特徴をもっていると吉本は考えます。象徴とはシンボルということで、要するに最高にして絶対の真理が形になったものでしょう。いと高きところ、かすみたなびくあたりにいらっしゃる存在です。その象徴は人の形をしていてもヒトではないので、神であり絶対の真理であり宇宙の中心であるというものです。それは日本では天皇陛下だった。ではこの象徴性とは何か。それは原始性の産物だと吉本は考えます。原始というのは文字のない時代、誰もが日常の用を足すしゃべり言葉は話してもそれ以上の観念をあらわすことができない時代です。そんな時代からみんなが恐れ、拝み、ひれ伏す象徴は存在した。それは太陽だったり月だったり山だったり、あるいは共同体が祖先と信じる動物だったりしたんじゃないでしょうか。それは共同体の成員すべてが信じる共同体を共同体たらしめるものだった。それは一方で絶対的な宇宙の秩序であり、一方で現実の生活を支配する掟だった。やがてその象徴は文字として表現され、神話としての物語の原型を産み、宗教となっていき、やがて宗教と法とが分離する。しかしはっきりと分離する以前のところで宗教であり同時に掟である象徴性が共同体に君臨し、共同体の成員の精神のすべてをさらっていく段階がある。それが戦争中の日本だった。では象徴性とはどんな特質を持つか、それは単純性の産物だと吉本は考えていくわけです。「述語的には」という言い回しは、要するにさらに述べるならばってくらいに考えておけばいいと思います。象徴というものは絶対のものであると同時にいたって単純なものだ。それは文字無き時代からの原始性の産物だからだと思います。文字が生み出した論理的な思考や実証的な方法やあるいは合議による決定で象徴になっているわけではない。そんなものが存在する遥か昔の原始からあったのだから、それは近代的な見方からすれば単純なものです。昔昭和天皇が病気になって亡くなった時、皇居の前に大勢の日本人が集まって、中には皇居に向かって土下座して泣いている老人たちもいた。それを見て「土人みたいだ」と嗤った浅田彰というインテリがいた。確かに神話や宗教にいかれた人たちを、その神話から自由な醒めたところから眺めるならば、なんであんな単純なことを信じるのか。ただの一人の老人にすぎない人物やその一族を、いと高き存在としてひれ伏すほどに崇めるのか分からないでしょう。しかしその単純にして原始的な、外側からは馬鹿じゃないのか土人みたいだと見える心性というのは本当に過去の遺物なのか。もう過ぎ去って克服された未開の暗愚な心に過ぎないのか。吉本はそうではないと考えると思います。その未開の暗い閉ざされた心の中に、人類が膨大な時間をかけて織り上げてきた規模の大きな思想があり、大きな感情がある、また美とか真理とかいう人類が追い求めてきた理想の姿がある。それは吉本が自らの戦争中の心的な経験から実感したところだったと思います。それは言い方を変えれば「信」ということです。「信」とか「信仰」というものの中にあるものを、「不信」の側から解明し、「信」と「不信」を包括する思想を生み出さない限り、「信」は自分たちの中に内閉して「不信」の世界を迫害視し、やがて「不信」の世界を滅ぼそうと願うでしょうし、「不信」は「信」の世界を嗤い、理解のできない土人たちという蔑んだ視線で何も学ぼうとしないでしょう。さて、さらに神話の象徴とは何か。それは象徴が象徴として君臨する原因は向こう側、すなわち神話の中にあるのではなく、こちら側、すなわち貧弱で平凡で退屈な繰り返しを生きる現実社会の中にあると吉本は考えます。現実の貧弱さや現実の苦しさや現実の卑小さが、向こう側を生み出す。向こう側に心をはじき出す、表出する、あるいは疎外するといってもいいと思います。それが象徴だ。日本であれば天皇で、天皇の神々しさは、日本の庶民社会の地面にべったりくっついた利害の錯綜するやりきれない生活それ自体を原因として生み出されている。このことを単なる経済や政治の面からでなく心的な世界の構造を明らかにして追求したい、それが吉本の決意であって共同幻想論のモチーフです。「それ が単純なるものは、象徴的であることの必要且つ充分な証明となるだらう」というのは、単純なる象徴だからこそ、共同体の成員全体の文字も読めない老婆や幼い子供の心を捉えるのだということだと思います。それは見かけは単純で非論理であほらしいように見えますが、戦争中のどんな高度なインテリや芸術家や宗教家も軒並みひっさらっていった恐ろしい魔力を持っています。そこにはきっと人間という存在の原始に遡る秘密があるんだと思う。インテリも軒並みさらわれたということは、「信」と対極のように見える「知」にも実は神話があり、象徴があり、原始性と単純性があるということです。つまり「知」という「不信」は、自分たちが思い上がっているほど「信」と切り離れたものではなく、ただ無自覚な「信」だという側面を持っていると吉本は考えます。向こう側として存在する神話の世界をすべてこちら側、つまり現実と関係付ける、それが神話を解明することです。吉本が庶民とか庶民社会と呼ぶ概念は、そういうこの世界の向こう側を生み出した一切の原因の篭っている混沌だという理解を含んでいます。そう考えれば、庶民そのもののぱっとしない無名の私たちこそ、実はこの世界の主人公たりうるということになるでしょう。どうすか?そのへん。あんたやおいらが世界の主人公だというそこらへんの件は?そんな気がします?しないよなあ(⌒・⌒)ゞ 上司に嫌がらせされてむかむかしてるような日常で、世界の主人公とゆわれても・・・しかし吉本の思想はなんでもない生活者に、庶民に、政治権力という意味だけでなく思想としてこの世界の主人公たりうる根拠を示そうとする長い長い人生の闘いだったと俺は思っています。