「それ故、神話の科学的な解明なるものは、すべて無意識の心理学的分析に還元せられざるを得ない。さもなくば、それは考古学の問題に外ならないであらうから。」(原理の照明)

単純で原始的な神話の象徴性というものは何故高度な知識人から庶民の人々までを引っさらう力があるのか。それは無意識に関わるからだ。原始から形成されてきた人類の無意識の分析に還元する、つまりそこに分析を集中させなければ解明できない。現代の人間の心の奥にも、ひとたび襲われれば引っさらわれていくような原始の共同的な心性があって、それはけして過去の遺物などではない。原始から形成されてきた無意識の共同性をどう科学的に解明するかが課題だ。そうでなければ原始というのは文字無き時代の遺物を調べる考古学の問題だけなってしまう。なんか蛇足な解説だけどいちおうこんな感じで<(@^_^@) あー歯が痛い・・・おまけです。これは「アフリカ的段階について」という書物の一節です。メジャーな「知」の世界から取り上げられず、ひっそりと出版されたこの本の中に共同幻想論から研鑽し続けたたかい続けた吉本の真髄をなす思想が語られています。

「アフリカ的段階について」          吉本隆明(中略)

 わたしたちがヘーゲルのアフリカ的な世界への理解といちばん離れてしまう点は、原住民が人間としての豊かな感情や情念をもたず、宗教心も倫理もまったくしめさない動物状態の野蛮とみなしているところだ。ヘーゲルは野蛮や未開を残虐や残酷とむすびつけ、生命の重さや人間性を軽んじている段階にあると解釈している。だが現在のわたしたちは西欧近代と深く異質の仕方で自然物や人間を滲みとおるように理解し、自然もまた言葉を発する生き生きとした存在として扱っている豊かな世界だとおもっている。文明の世界が残虐で野蛮だとみなしているものは、独特な視点から万有を尊重している仕方だと解することもできる。
 ヘーゲルはいわば絶対的な近代主義といえるところから、世界史を人類の文明の発展と進化の過程とみなした。そこからは野蛮、未開、原始のアフリカ的なものは、まだ迷蒙から醒めない状態としかかんがえられるはずがない。たしかに自然史(自然をも対象とする歴史)としては妥当な視方だという考えも成り立つ。だが人間の内在史(精神関係の歴史)からみれば、近代は外在的な文明の形と大きさに圧倒され、精神のすがた形がぼろぼろになって、穴ぼこがいたるところにあけられた時期とみることもできる。外在的な文明に侵されて追いつめられ、わずかに文化(芸術や文学)の領域だけを保ってきた。そして文明史はこの内在的な文化(芸術、文学)の部分を分離して削りおとすために、理性を理念にまで拡げる過程だったとみなすこともできる。精神の内在的な世界は複雑さと変形を増したが、輪郭を失って文明の外観からは隠れて見えなくなる過程だったといってもいい。現在が、ヘーゲルの同時代の精神よりも、認識力を進化させたとは到底いえないとしても、内攻して深化してゆく認識を加えたとはいえよう。
 ヘーゲルの同時代は絶対の近代主義が成立した稀な時期といってよかった。時代が歴史を野蛮、未開、原始と段階をすすめるものとみなしたのは、内在の精神史を分離し捨象しえたためはじめて成り立った概念だった。現在のわたしたちならヘーゲルが旧世界として文明史的に無視した世界は、内在の精神史からは人類の母型にゆきつく特性を象徴していると、かんがえることができる。そこでは天然は自生物の音響によって語り、植物や動物も言葉をもっていて、人語に響いてくる。そういう認知は迷信や錯覚ではない仕方で、人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている。わたしたちは現在それを理解できるようになった。これはアフリカ的(プレ・アジア的)な段階をうしろから支えている背景の認識にあたっている。
 わたしたちは現在、内在の精神世界として人類の母型を、どこまで深層へ掘りさげられるかを問われている。それが世界史の未来を考察するのと同じ方法でありうるとき、はじめて歴史という概念が現在でも哲学として成り立ちうるといえる。