「戦後世代の特質とは、言ふまでもなく、希望の放棄の中にある。希望の放棄…。放棄といふことのなかには、あの狡猾な前世代への信頼の放棄がある。」(形而上学ニツイテノNOTE)

希望を棄てたということは誰かがこの世の中を良くしてくれるだろうという希望を棄てたということだと思います。戦争中は吉本は日本の軍部や政府を信じ、この戦争をやることで日本やアジアが良くなるという希望を持っていたでしょう。しかしその戦争は負けた。負けたというだけで、信頼は失わなかったならばいわゆる右翼になるんだと思います。戦争に勝てばよかったんだということですね。次は勝つぞということでしょう。しかし吉本は負けたということだけではなく、負けっぷりの中に日本の指導層への信頼を失くしています。東京裁判を傍聴して日本の指導層が国民にウソをつき、アジアを救済するという大義名分に反して戦地でアジアの現地の人たちに暴行や殺人をしていた事実を知った。東京裁判によって得た不信感は二重にあったと思います。東京裁判自体の正当性に疑問を持ち、裁くアメリカと連合軍を信じられないと同時に、自分の信じていた日本帝国の指導層への信頼も失った。こんな奴らを信じてすべての生活を捧げて、大勢の人々が死んで、自分自身も戦争が終わらなければ死んでいただろう。民衆のためという大義名分はウソだった。あんなにもまことしやかに語られた美しい目的は真っ赤なウソであった。それが戦争に負けた負けっぷりの中に現実として現れたのを見たわけです。多くの人々と自分自身の人生と死とを犠牲にして、それに見合うものはどこにもなかった。最後まで徹底的に戦う者も、責任を取って真正な言動を見せて死んでいくものもいなかった。だまされたんだ。一枚岩のように語られた国家は敗戦で跡形もなく消し飛んで、ただあいつらと俺たちという支配被支配のだましだまされの構図が残酷に見えてしまった。それを見たことがすべての始まりです。つまり戦後という概念の本質です。その戦後にまたぞろ希望を語る勢力が登場します。社会主義の希望です。それは国際的な規模をもって語られる希望であって、世界中がその希望をめぐって動き始めたわけです。それもまた大変な迫力ともっともらしさを備えた希望だったと思います。それを信じるならばいわゆる左翼になったんだと思います。しかし深刻に日本帝国にだまされた自覚のある吉本は、その希望に飛びつけなかったと思います。ちょっと待てよ。これは感性としては同じなんじゃないか。戦争中のもっともらしい言説と無意識の構造は同じじゃないか。そういう感性的な気づきが最初にあったと思います。ただ目的を戦争から社会主義に変えただけじゃないか。これもだましなんじゃないか、そういう気づきです。そしてそういう社会主義共産主義の希望をふりまく左翼たちの経歴を探ると、戦争に協力し戦争を遂行していた連中だ。その責任問題、戦争中は戦争に協力し、戦後はまるで最初から戦争に反対だったように装うインチキに対する責任問題は誰も語らない。思想が変わるのはしかたがない、しかしどう変わったかを民衆に明らかにしないでまた指導者になりたがっている。支配層から支配層に狡猾に乗り移っていく。そして吉本は戦争責任論を書いて、一切の戦後の希望を語る人々と決別していきます。これはつまり戦中戦後の歴史です。吉本という徹底的に考える人によって暴露される現代史です。しかしいつも大切なのは歴史自体ではなく、私たちが暮らしている現在ですね。歴史が浮かび上がらせるものがあれば、それが現在にとって何かであって、現在の問題がすべてです。今も希望が語られているわけですが、もう社会主義の希望は死んでしまったと思います。現実の社会主義国家の崩壊が引導を渡したわけです。しかし小泉がいっとき九割の支持率を持っていたり、ブッシュもそういう時期があったように希望というものは今も通用しています。希望というものの性格は同じです。それは支配被支配というぶっちゃけた真実を覆い隠して、社会を一枚岩のように見せるものです。それに対して権力に対する反抗として語られる希望は現在の社会の支配被支配を暴くように見えますが、希望として語られる将来の社会、革命後の社会はバラ色の一枚岩のように提示されます。私たち指導層を支持していただければ、永遠にあなたたち被支配層を指導し支配していくつもりです、と語れば希望のイリュージョンは生まれないからです。しかし現実がそのイリュージョンを引き剥がす段階は必ず訪れます。そしてやっぱり支配被支配は変わらないじゃないか。まただまされたんだ。という事態が明白になり、その後またまた希望が登場する( ̄_ ̄|||) その繰り返しですよね。その悪循環を断ち切る道はふたつあると思います。ひとつは一枚岩として語られる社会のイリュージョン、つまりは共同幻想というものですが、この構造と現実に対して存在する関係というものを徹底的に分析することです。吉本の共同幻想論やその後の共同幻想の現在の姿を追及する仕事はこれを行っていると思います。もう一つはあくまでも支配被支配という共同幻想の背後に隠された現実関係を具体的に追及し暴き続けることです。つまり幻想の構造と現実の構造とその関係というものを絶えず追い続け暴露しつづけることです。それを担える者が知識人と呼ばれるべき存在だと思います。しかしこうした問題はあくまでも共同性の思想の領域です。吉本の思想の大きさは共同性の思想の領域にとどまらないところにあります。幻想の領域にはさらに個体性の領域と対なる幻想の領域がある、というのが吉本の思想的な骨組みです。そこから文学や家族についての豊かな考察が生まれてきます。むしろ個や家族というものの価値を守るために、共同性の領域に出かけていく戦いに行くのだという構えが貫かれています。そしてそういう全幻想領域の構造を暴くという姿勢のみが共同幻想性を超えるものだという把握があります。ここに戦後思想のもっとも優れた構想というものがあると私は思います。