「人間が他人を認識するのは、習熟によってであり、その習熟が如何なる種類のものであっても、この原則は適用されて誤らない」(批評の原則についての註)

これは一種の逆説を語っているのだと思います。他人を認識するのは鋭い観察力とか洞察力とかによる、というのが普通考えられることです。しかしそれは一発勝負というか、ある時点で行う優れた判断ということであって、時間的な繰り返しという概念を含んでいないわけです。それに対する逆説として習熟ということを言っている。それは繰り返しということを強調したいからだと思います。吉本は若い頃から何故か習慣というものについて深く考えています。習慣とは毎日毎日繰り返すこと、歯磨きのように毎日繰り返すことですね。その繰り返しの中で熟達するものがあれば習熟と呼ぶのだと思います。
なんで習慣とか繰り返しということにこだわるか。おそらくそれは人間の現実のあり方が繰り返しというものを避けられないことにこだわっているからだと思います。日常生活と呼ばれるものは繰り返しの世界ですよね。毎日起きて顔を洗って布団をたたみ、ひげを剃り飯を食って電車に乗って会社に出かけるというような。こういう反復、繰り返し、習慣といった世界が本当は人間の生活を埋め尽くしているものなのに、認識とか観念とかいう、つまり精神作用で現実を把握しようとする場合には、この繰り返しの世界自体を取り上げようとしないじゃないですか。つまり他人を把握しようとか、世界を認識しようという観念の働きというものは、この繰り返し繰り返す習慣の世界というものが苦手なわけでしょう。地味で当たり前で平凡で、面白くもおかしくもないとらえどころのないものだからですね。それよりもめったに現れないような事件とか現象とか体験、非日常的なものに焦点を当てて認識するほうが捉えやすいということになります。
それは違うんじゃないか、という疑問を吉本は持っているんだと思います。観念が現実の人間や社会を捉えることに大変慎重で、疑い深いとも言えます。認識とか把握とか思想とかいう観念の作用が、現実を本格的に捉えるにはこの平凡で誰もが避けることのできない習慣の世界をどう考えるかが大変重要だと考えていると思います。そこを避けて非日常的でドラマティックでとんがったところだけで人間や社会を捉えるのは間違いじゃないかと疑っています。そこで人間の現実の存在が繰り返し繰り返す日々の習慣の世界を避けることができないとすれば、観念の世界が現実を捉えるためには観念の世界も繰り返し繰り返す現実につきあいきる必要があると考えるようになります。
すると習慣として生きる人間の生活の領域が大きなテーマになってきます。それは平凡な日常の領域であって、一般大衆とか庶民とか言われる人々の住む世界です。平凡で小さな生活圏の中で、ぱっとしない退屈な繰り返しを生きていき、それ以外の大きな社会とか高級な思想とかにはさほど関心がなく、やがて結婚して子を育て、老いて子供が離れていって最後にお陀仏となる。大衆というもの、大衆とは何かということが観念にとって大変重要であり、同時に観念にとって苦手な対象であるということに吉本は若くして気がついています。大衆の原像という概念もその気づきから生まれます。
吉本は詩人になるには才能は問題ではない、どんな人でも10年間毎日毎日詩を書こうとし続ければ一丁前の詩人になれると確信をもって語っています。これも逆説に聞こえますが、それは詩という観念の作用が10年間現実の繰り返しにつきあえるならば、その観念は現実を含むものになる、つまりそれが詩だと言っているのだと思います。そしてこの平凡な繰り返しの世界の中に、非日常的とかドラマチックとか英雄的とか深淵とか、そういう観念がとっつきやすい平凡じゃない特別なことが、全部本当はその繰り返しの世界の中に含まれているんだということを言いたいんだと思います。それが大衆という概念の本当の意義である。しかしそれは視えない。なぜならば平凡な繰り返しに10年つきあいきるという観点がないからだ。どんなに嫌でも、辛くても、退屈でも、ぱっとしなくても現実の人間はそれを避けることができない。それを体験として通過するしかない。通過して平凡なおっさん、おばさんになっていくわけです。しかし観念は避けて逃げて済ますことができます。だがそれでは観念が現実を本当に把握したことにはならない。現実の人間が通過していくように繰り返していくように、観念も逃げず避けずに平凡で退屈で嫌で嫌でしょうがない繰り返しを耐えて通過しない限り、観念が本格的に現実を内蔵することはできないという考えです。