「わたしはしかたなしに孤独な希望を刻みつけなければならぬ」(第二詩集の序詞(草案))

吉本は戦後少数ではありましたが、同じような思想を持ってともに戦うという思想的な連帯感を感じる人たちを持っていたと思います。それは必ずしもつきあいがあるとは限りません。しかし次第にその連帯感は失われ吉本は孤独になっていきます。そして現実というのは思想を裁きます。この現実の現象をどう考察するかと現実が問い、その解答を避けるものを思想としての資格なしとしてふるい落とし、解答するものに思想としての正確さを過酷に暴露する、そういう現象とか事件とかいうものがあります。60年安保もそうであり、オウムの事件もそうでした。そして吉本は孤独になっていきます。まがうことのない戦後最大の思想でありながらジャーナリズムは彼を端っこに追いやり続けました。しかし刻まれた孤独な希望は確かに残っています。

おまけ。「書物の解体学」という本の「ジョルジュ・バタイユ」の一部分です。

まずなによりも、バタイユは、少しずつ作られ、徐々に構成され、<明日>にうけ継がれる日常的な修練にたいするはげしい嫌悪を表明している。バタイユの口から聴くよりもいちはやく、わたしたちは体系的な構築にたいする憎悪をその使徒たちから聴いてきた。このばあい<体系>とは、観念の作業としてみるかぎり、第二の<自然>であり、人間の存在をとりまく自然がたよりなくおもわれる情況のなかで、その代理物をもとめあうとするところにあらわれるものだからである。
また<突然>とか<いきなり>とかいう概念は<識知しえぬもの>から衝きあげられた個体と、未踏の客体がむずびついて、いっさいの過程的な考察からじぶんを隔ててしまうことである。「ランプを持ち出し、飲み物を用意し、ベッドをしつらえ、時計のねじを巻くことのばかばかしさ」には特別な位置をあたえられることになる。
「最後の砦の奪取を計りもせずに生きる人間」「死ぬのが怖いばっかりに可能性をむざむざ死なせてしまう人間」の状態を拒否する態度である。
また<突然>とか<いきなり>とかいう概念は、いつも量りしれないところから<法悦>と<笑い>と<錯乱>をもたらして、また去ってしまう内的な体験である。それは「推論」よりも早く到着する大疾走のようなものである。