「人間精神の現代的な課題は、必ず解かれなければならない。われわれの現代は、かかる種類の批評家をもってゐない」(批評の原則についての註)

吉本は常に現代的な課題というものに執着してきました。言い換えれば常に「現在」というものを必ず解かなければならないと考えてきました。一貫してそうですね。批評家というものはみんな現代的な課題を追求してると思ってやってるでしょうが、吉本には本格的にやってる奴はいないと思えたんでしょうね。じゃあ俺がやるしかない、ってことでやってきた。そういう感覚は言ってみれば受身な感覚なわけですよ。まわりの状態をじっとまんべんなく見つめて、自分がやるしかしかたがないからやる、というふうになってやるわけです。状況に対して受身、言い換えれば状況に対して必然を感じとった上でだけ動こうとする姿勢ですね。吉本はどこかで自分の性格をどう思うか、というインタビューに答えて、「戦闘的受動性」と書いていました。戦闘的だけど、受身なわけです。あるいは受身だけど戦闘的。がまんしてがまんしてがまんして最後にブチ切れる、切れたら最後徹底的にやる、そんな性格だということです。それは性格であると共に思想です。批評家でも作家でも初期は現在的な課題を追求して登場するのだと思います。それは初期だから、若いからですね。若いということは現在的というか、現在そのものなんですよ。若いから感覚が現在をありのまんま感じています。別に努力したからというわけじゃなくて、自分の若い感覚をそのまんま表現したら現在というものを無意識に表していた、というところがあります。しかし作家(批評家も含めて)はだんだん年を食っていきます。そうすると現在をイキイキと感じるということから離れていきます。それは自分の作品世界ができていくからでしょう。言い換えれば自分が執着して考え込む自分の中の心の領域が大きく育つからです。自分の世界ができてしまう。その分だけ現在から感覚的に離れることになると思います。あるいは文化的な遺産として存在する過去の文化に取りついて、そこに執着するということもあります。また知の世界の中で国際的な最高水準を追う課題に憑かれるということもあります。作品でも学問でも、現在的な感覚というものをどこかに置き忘れても、なんとなくなりたって見えるものですね。現在という窓を閉め切ってしまった孤独な作家の部屋の中で、あるいは象牙の塔の中で、あるいは文化人と出版社のサロンの中で、それなりに作品や論文が書かれ内輪で評価されということで成り立ってみえる。そのことにはまた必然性もあります。つまり現在に向かって窓を開かなくても、自分自身の心の中に蓄積された過去というものがありますし、歴史的に積み上げられた過去というものもあります。そうした過去を総ざらいしてみたいということも人間の精神にとって必然だからです。だから過去のほうに打ち込んじゃって、年とともに苦手になってきた現在的な感覚の方はいつのまにかご無沙汰になってしまう。ところでそれでいいのか。いいわけないぞと吉本は言っていると思います。こうした問題を作家の生き方死に方という言葉で吉本は講演会CDで語っていました。この生き死にというのは身体の生き死にではなく、作家あるいは作品の生き死にです。吉本は作家は現在というものを体現してデビューしてくる。現在的な課題というものと、作家の若い感性がたまたま合致して華々しく取り上げられることがありうる。しかしそれは作家あるいは作品にとって本質的な問題ではない、というのです。例えば「限りなく透明に近いブルー」で登場した村上龍でもいいですし、「風の歌を聴け」で登場した村上春樹でも誰でもいいですけど、その鋭敏な若い感性が現在を体現している。しかしそのことは文学にとっての本質的な問題にはならないと言っています。じゃなにが本質的なんだといったら、死に方だというわけです。作家として作品としてどう死ぬか、上手に死ぬか下手に死ぬか。上手に死ぬなら、その作家作品は古典としてよみがえるというのです。下手に死ねば、ただその時代を体現した作家というだけで歴史の遺産の中に置かれるだけだ。古典としてよみがえるということは、その作家、作品が後の時代にも通じるようなものを孕んだままで存在するということです。例えばドストエフスキイが古典だというなら、それは過去の偉大な作家、作品だというだけでなく、今の時代にも課題となるようなものをまだドストエフスキイの小説が孕んでいることを意味します。吉本の考えではドストエフスキイが古典として生きているのは、ドストエフスキイの作品の中にロシアにおける古代の思想の規模というものがあるからです。それは宗教という形で存在した古代思想が今でも民衆の心の奥にあり、それが現代的な精神のありようと葛藤したり混沌を生み出したりする、それが追求されているから今も生きているんだと考えています。それはドストエフスキイが上手に死んだからだということになりましょう。上手に死ぬとか下手に死ぬとは何か。それは現在的な感覚を体現している若い無意識的な登場から始まり、自分の過去の心の遺産や、文化的な過去の知の遺産や、その時代の国際的な知の頂というものを経めぐって、そして再び自分が現在に対して感じている感覚に戻ってくるということじゃないかと思います。行きっぱなしじゃなくて、帰り道をたどることです。しかし戻ってくると、もうすでに若い自分じゃなくなってるわけですね。無意識に現在そのものである自分、例えばコギャルであったりチーマーであったりオタクであったりという、良くも悪くも現在そのもの、という自分じゃなくなって余計なものを頭にも心にもいっぱい蓄積したオッサンオバサンになっていくでしょう。それでもそのオッサンオバサンである自分の現在というものに執着する、言い換えれば現在における自分の自分に対する、家族に対する、社会に対する関係性を性格にぶっちゃけ正直に把握しているそのことが、上手に死ぬということだと思います。死ぬということはもっと分かりやすく言えば、終わるということですよね。身体が死ぬかどうかに関わらず、作家というひとつの仕事が終わる。その終わり方、終わるまで貫かれた方法の問題です。しかし、それはとても困難な方法です。例えば中上健次とか井上光晴という現代文学の優れた小説家に対する吉本の批評で、この人たちはかって熊野の被差別部落、中上の言葉では路地っていうものの中での体験とか、戦争や共産党や炭鉱労働者だった体験をもとに作家として登場し今もその体験を掘り下げている。それは大変優れたものだ。しかし、あんたたちの作品の中には、あんたたち自身の現在の、都会で作家生活を送っている中年男性であり、物書き稼業という浮き草のぱっとしないその現在、というものが含まれてないじゃないか、という批評があります。そこがダメなんだ、死に方が下手なんだ、ということですね。それが吉本の思想的な執着なんですよ。吉本はどこかで、過去の先輩である作家を理解するよりも、若い後輩の作家を理解する方が何倍も困難なんだと言っています。そりゃそうでしょう。過去の先輩はすでに完了した世界をもって解明を待っています。しかし後輩のほうは書き始めの作品と、混沌とした現在の中にぽつんといるだけですから。しかしそれでも困難を耐えて後輩を理解するんだということは、現在を理解するんだということです。そしていつか終わりが来る。心の終わりか、身体の終わりが来るわけです。それ以上はしょうがない。がしかし、吉本が最後まで老いてよぼよぼの自分の、現在のなまなましい社会や家族や自分自身との関係というものの追求をやめなかったとすれば、吉本隆明と吉本の思想は現在に対して課題を開きながら老いくたばることができます。つまり未知未踏の課題というものを前のめりに追求しながらバタリと倒れるならば、その思想的な課題は自己完結しないで痛々しい切り口を見せながら続いていくわけです。それが上手な作品の死に方であって、貫いてくたばるなら吉本の思想はよみがえるでしょう。吉本によれば近代以降の文学者の中で、そういう上手な死に方をやってみせたのは夏目漱石だけだということです。それだけ自分を現在に向かってぶっちゃけ開いていくということは難しい。知識とか財産とか地位とか世間体とか、家族とかキャリアとか会社とか、あらゆるものがぶっちゃけること、つまり仮借なく暴くことを阻みます。切れば血のでるような本当のこと、というものをまあちょっと隠しておこうじゃないかという判断に導きます。ドストエフスキイ夏目漱石がなんでエライのか。それはすっぱだかで傷だらけで終わったからです。その時代の知や時代経験を一身にはらんでいるくらいの巨匠でありながら、自分の心が世界や家族や自分自身にどういう関係を現在なまなましくもっているか、ということを彼らの精神が病的になるとか異常に陥るいうことをさらに越えて保ち続けた稀有な存在だからでしょう。そういう老いてなおのぶっちゃけ性というものが重要だと思います。何ものも怖れない暴露性というものです。つまり戦闘的な受動性です。だけど人間はそれになかなか耐えられないんでしょうね。ウソをついていい、隠していい、気取っていい、ダマしていい、ダマされたほうが悪い、なんかそういうふうになっていきますよね。裸でいるなんて危険極まりないもんね。会社の中でそれをやれば誰かみたいに石で追われますよ。俺だけど☆ ̄(>。☆) がしかし、人間がどこかで人間の根源に遡りたいという衝動をもっているならば、裸でいるしかないんじゃないでしょうか。ウソついていっとき得したっていつか滅ぶよ。だってそれは現在に追い抜かれることだから。