「芸術の終局は必ずや現実の発見である。だが、現実の発見は、恐らく芸術の存在理由を消滅せしめるだろう」(方法について)

芸術というのは個人が個人として存在することで生み出していく心の領域を表現したものだと思います。社会の一員としての個人の心の領域、つまり共同幻想の内部の心の領域でもないし、個人が他の個人との間で作り上げる性としての心の領域、対なる幻想の領域でもない。例えばある体験とか言葉とか、光景とか夢とかが心にずっと残っている、ひっかかっていることってあるでしょう。私は例えば幼いころ、一人で誰もいない自宅の玄関の前の階段に座って、日差しで明るく輝いている玄関の曇りガラスを見ている記憶がずっと心にひっかかっています。すると変な話ですがとてもうんちがしたくなっていくんですね。たぶん幼稚園くらいの年齢です。うんちがしたいのにトイレに行かないで、お尻の穴をかかとで押さえながらボーッと玄関の曇りガラスを見ている。するとなんだかいっそう玄関のガラスが輝いて、心が癒されるようなその空間が暖かく広がっていくような不思議な感覚がやってきました。まあそんな感じのことがひっかかって消えないわけですよ(^m^)ゞ
もし私が芸術をしようと思うなら、こんなささいな誰に話してみてもしかたのないような経験から始めるでしょう。燃えるような玄関と自分を絵にしてみたり、あるいはその空間の感じをモチーフにして別の題材の中に再現しようとして絵だの文章だのを書くでしょう。そうするとその表現された絵や文章のできはともかく、この誰にも伝えようのない、また伝える意味もない幼い自分のうんこをこらえている玄関体験が自分の外に表現されます。それで少し慰められるでしょう。個が個であることで心に積もっていくものを取り出すことができたことで。それは私にとってだけ価値のあるものです。まあたいした芸術作品にはなりそうもないけど、芸術というのは多かれ少なかれこうした個として固執されたものの表現だと思います。
だから芸術とか表現というものは必ず自己慰安としてスタートするんだ、というのが吉本の洞察です。誰も聞いてくれない、誰にも伝えようもない自分の自分だけの心のオリとかシコリのようなものを、いわば自分自身が聞いてあげる、見てあげるものにする。自分の外に言葉や絵にして取り出して、それを自分が最初の読者として見て慰めを感じる。大なり小なりそういうように芸術だの表現だのにはまる人は、表現行為の入り口をくぐるんだと思います。しかしそんな自己慰安としての表現を繰り返し行っていって、作品をいろいろ書いたりしてみて、それで何がどうなるのか?
そこを吉本は、それは現実の発見に辿り着くんだ。その現実の発見が表現行為の終わりなんだ。そして現実の発見は芸術の存在理由を消滅させめると書いているわけです。これはいったい何でしょう。芸術の始まりは個の自己幻想の領域で固執された経験やイメージを表現することです。そこには無意識が関与しています。わたしが玄関前のうんちがまん体験に固執するわけは私自身にもわからないわけです。なんでそんなことが五十を過ぎてまで心にひっかかっているのか分かりません。だからそのひっかかっている理由は無意識の中にあるんでしょう。この私の無意識を形成しているのは、私の心の外側の出来事としての、父母の夫婦関係であり、母と私との胎内から幼児期に至る交流の体験です。この私の心の外側に存在して私と交流し私の無意識を形成したものを、現実と呼んでいるのだと思います。そして私の父母の対なる関係の背景には父の仕事だの、母の生い立ちだの、当時の社会構造だのといったさらに広く複雑な関係が広がっています。これも現実です。
もしも私が私のうんご玄関体験をモチーフに表現を繰り返し、そのことで自足してそれ以上のことを求めないならそれはそれでいいわけですが、私がいったいなんで俺はこのちびっ子の頃のうんこをこらえながら恍惚となっているような体験に固執するのだろう?と考え、それを解明したいとしたなら、私は私の自己幻想の領域に自意識を導入したことになります。私の個の世界はいわば2段重ねになり、私の無意識が固執させるものを私の自意識が解明しようと見下ろしているような構造になります。言い換えれば私は私に対して批評的になるわけです。それは私の個の世界や無意識の世界を形成した外部の現実の発見に私を導いていくでしょう。そしてもし無意識の形成について重要な現実の契機というものがあからさまに残さず解明されたとしたらどうなるか?おそらく私は心の中に固執されたうんこがまん玄関体験から、それよりももっと深く根底的に私自身を規定している無意識と、無意識の外部の現実の解明に固執を移していくと思います。いわば理解したい解明したいという衝動の大きさが、あらかた吐き出した心の奥のイメージに固執する衝動を上回っていくと思います。そしてある意味では芸術は枯れ、批評的な執念は太っていきます。
例えば三島由紀夫という作家がいます。日本を代表する一流の小説家だといえると思います。三島は自分には無意識はないんだと書いています。それは言い換えれば空洞のように空虚になった無意識しか持ち得ない幼児期を体験したということになると思います。この特異な空白の無意識、虚無の無意識から三島は多くの優れた小説や評論を書き、また政治行動家として市谷の自衛隊で割腹死までしてのけました。吉本は三島の空白の無意識が形成されたのは、三島の祖母が生みの母から三島を奪い取り、幼児期にずっと自分の手元に置いたからだと分析しています。しかし三島自身はそのように自分を分析してはいないわけです。おばあちゃんが母親から自分を奪い、母親から切り離された異様な幼児期を通過させたから無意識が空洞になっちゃったんだ、というのが真実ならば、その真実は三島の生み出した壮大にして華麗な表現の世界に対して残酷な暴露といってもいいと感じます。なんだ、結局母親から無理やり幼い時に引き離されたから、心が空虚になったってことか/_-) それは三島には耐え難い卑俗な理由ではないでしょうか。でもやっぱり真実はそうなんだとしたら、現実の徹底的な解明はその人の中の芸術を終わらせるかもしれません。しかし人間にとっての芸術衝動そのものは、個が個として心を形成していくという普遍性がある以上、消滅することはないと思います。