「僕はひとびとのように現実の危機に対しての人間の生の不安、絶望を強調するわけにはいかない。ただ、それをもっともだと感じているだけだ。僕は人間そのものに絶望してゐる。これ以上、何に絶望できるか?」(断想Ⅵ)

現実の危機に対しての生の不安とか絶望というのは、戦争直後の若き吉本の時代に活字上でよく語られた現代の精神の問題への語り口の一つです。それに対して吉本は不満なわけです。そんなことで済ますわけにはいかないぞ。そりゃべつに間違ってはいないだろうが、そんなことで切り込んだことにはなんねえぞ。ホントはそうじゃないんだ。現在をもっとぶっちゃけ感じてみろ。天皇終戦を宣言して、なぜそれだけで終わってしまうんだ。なぜ昨日まで本土決戦、徹底抗戦を叫んでいた日本人がぞろぞろリュックを背負って復員したり、毎日の生活だけになってしまうんだ。おかしいじゃないか。昨日までのことがみんな軍部の悪い連中のせいで、これからは民主主義でいきましょうってそんな薄っぺらな理屈で納得できるか。しかし、それでそんな鬱屈した俺自身はなんで何もしないんだ。みんながお互いを心の奥で軽蔑してひそかに疑いあってる、それがぶっちゃけ現在だ。なにが生の不安だ、きいたふうなこといってんじゃねえよ。インテリぶって大人ぶって生活者ぶって仮面をかぶって隠しているでっかい屈辱感、それが現在じゃないか。原爆を落とされて、神と信じていた天皇がただの人間だとされて、無条件降伏で負けて占領されて、それでなにもできない、なにも話し合えない、なにも考える武器がない、そのなまなましい直面したくない劣等性の感情、それが絶望だ。まあそんな感じでしょう。今もそうです。なんで大きな泣きたくなるような今現在の日本社会全体の屈辱を、ぶっちゃけ互いに話し合うことすら俺たちはできないのか。これ以上、何に絶望できるか?おまけです。老いぼれていく吉本の現在というものです。


「健康への関心」
吉本隆明
(中略)あるとき買い物を自転車のうしろにのせて、おしたまま道路を横切ろうとした。道路の下手のほうからバイクが走ってくるのをちらっとみて、これは突っきれるなと判断して、そのまま道路をわたりきろうと歩いていくと、見事にバイクと衝突してしまった。こちらも自転車ごと横倒しになってのめったが、バイクの人も横倒しに倒れた。悪運つよく双方ともすぐに起きあがって、「大丈夫ですか」と声をかけあって、擦り傷だけで大過ないことがわかり、やれやれということで喧嘩にもならずに別れた。でもわたしは内心で愕然とした。道路の下手のほうに首を向けて、走ってくるバイクの距離と速さを確かめ、これは大丈夫とおもったのだが、ほんとは首がそんなに回っていなくて、ただ眼のすみにバイクの姿をちらっとみただけで、早合点したのだ。そのために目測を誤った。 わたしは家に戻ってから、首を左右に振る動作をやってみた。すると、自分では左右九0度ずつまわしているつもりなのに、ほんとは四五度くらいしかまわらなくなっている。これではイメージだけは首をよくまわしたつもりでも、ほんとはまわっていないはずだ。いつのまにか身体の動きは鈍く、また振りが小さくなっているのだ。つまりは老化がすすんでいるということだ。わたしはおどろいてそれからあと、首を左右に振ったり、左右に傾けたり、前後に曲げたりする運動を、意識して毎日やるようになった。いまでは、かろうじて首だけは、壮年のころとおなじくらいまわるようになった。これからも健康についての不毛で、孤独な、それでいてどうということもない沈黙のたたかいがつづいてゆくにちがいない。すべての老いとおなじように。