「ぼくは未来を怖れない。ぼくの怖れてゐるのは、現在だ」(寂寥についての註)

現在だ、というのは現実だということだと考えてもいいと思います。人々がこれが現実だと思っているよりももっと根底的なところに真実があり、それこそが現実と呼ばれるべきだ。だからたった今の現実が分からないまま生きている。真に怖れるのはそのことだ、ということだと思います。逆に言えば通俗的に理解されている現実なるものや、その延長での未来などは怖れることはないということになります。なにも怖くない、ただあなたの優しさだけが怖かったという・・・それは違うか(+_+)

おまけです。これは「なぜ書くか」という長い文章の一部です。


「なぜ書くか」吉本隆明


(中略)
 自己資質という言葉が、ぴったりとあてはまったあの無償の<書いた>時期は、わたしにとっても、わたし以外のどんな表現者にとっても、遥かな遠い以前の痕跡である。少年の日に家の前のにわとこの芽ぶきに純粋視覚を投入し、あるいは透明な時間をそこに滞留させたり、大風のあとの街中で、晴れて雲の刷かれた空と、その下の貧しい木造の屋根屋根とを情感によって放視することのできた時期のことである。つまり、わたしが、すくなくとも瞬間的には外界とまったく隔絶された世界を幻想として所有しえたとき、その世界はあきらかに自己資質であった。人間は生涯のこの時期には、昨日友人とささいな諍いをやったことが、世界の滅亡よりも重たく心に懸っていたり、行きずりの少女に惹きつけられたことが、この世で至上の快楽であったりというような倒錯を平然とやって疑わない。それは独自の価値観が支配する世界であり、ほんとうは二度とその世界を内在的にうかがうことは、じぶん自身にも、また外部からもできないものである。
 しかし、このような世界は手易く喪われる。そして習慣の世界がやってくる。わたしのかんがえでは、このような意味での自己資質は、少年のある時期に<書く>者にとっても<書かない>者にとっても共通のもので、したがって文学とはかかわりのないものである。文学はあきらかに習慣の世界が心を占有したときに、はじめて完全にはじまる。そして、人はだれでも自己資質の世界が喪失する過程よりも、<書く>という習慣の世界がかろうじて早くやってきたとき表現者になり、ややおくれてやってきたとき表現者でないのではないか?
 この意味では、表現者とその作品の世界(文学)は、ただ偶然の世界としてあるにすぎない。わたしは、わたしの偶然から始まった世界にたいして、どんな理くつをつけることもできないだろう。