「精神の強さは、一般には持続力としてあらはれる」(断想Ⅲ)

そりゃ吉本さんの持続力はハンパねーっスよ。パねース( ̄Θ ̄;) 「言語にとって美とはなにか」という論文は1961年9月から1965年6月まで試行という同人雑誌に連載されていたそうです。約4年ですね。同人雑誌だから原稿料も出ない。売れたから印税は入ってくるでしょうけど、そんなもん当てにしてはいなかったでしょうね。共同幻想論だって心的現象論だって試行に連載された大論文は同じ事情です。これを持続力と言わずしてなんという、って感じですね。膨大な資料を読み、そのために国会図書館みたいなところに通って気の遠くなるような準備をし、金にもならない読者も限られた小さな世界でやりとおした。どうですコレ?あなたマネできますか?俺はできそうもないですね。だってもう結婚して子供もいるわけです。特許事務所で働きながら売文もし、同時に金になる当てもない大論文に4年間取り組んだということですね。そういうことを持続するために、なにが障害になるか。その障害を乗り越えるために何が必要になるか。それが持続力としてあらわれる精神の強さの問題だと思います。
なにが障害になるかと言えば、ひとつは生活の重さだと思いますね。子供も小さくて奥さんがいて、生活費もいるわけですし、アンタなんでそんなお金にもならないことしてるの?もっと稼いでちょうだい(○`ε´○) ということは吉本さんだってあったはずですよ、たぶん。マルクスだってあったんだから。一人で部屋に閉じこもってわけのわかんない論文に来る日も来る日も取り組んで、少しは子供と遊んでやってほしい。少しは家事と子育てに追われる妻を振り返ってほしい。自分の思想だか戦いだか知らないけど、アンタだけで暮しているわけじゃないのよ!自分のことばっか考えてんじゃないわよ( ̄  ̄メ) そういう感じですよ。なんか俺自身の過去を書いてる気がする・・・
しかし吉本はやめることはできないわけです。吉本の周囲で吉本の仕事を理解してくれる少数の人や読者は吉本の仕事を期待してくれているでしょう。しかし同時に吉本の仕事を存在を抹殺したいと思っている敵も多くいます。政治的な敵も、文学的な敵も、思想的な敵もたくさんいます。そういう中で吉本は社会と対立します。また家の中で生活の重さの中で家族と対立します。そして仕事そのものの中で不断に自分自身と対立します。自分を否定し乗り越えることが本質的に書くことだからです。このキツさ、それはどこからやってきたか。それはただ吉本が自分が徹底的に考えたことを発言し、行動しようとしたからにすぎません。
自分自身を裏切らないで勇気をもってやっただけのことで、誰を落としいれようとしたわけでもなく、利益を得ようとしたわけでも支配しようとしたわけでもない。吉本とは、ただ自分が確信を得るまでに徹底的に考えて、それを勇敢に発言し行動したというだけの一庶民であるわけです。
しかしその中で一番重かったのは生活の重さではないでしょうか。自分が愛し、選んだ女と作った家庭、その中で自分がこだわって貫きたい自分自身の世界が対立する。どちらも身を切るほどに大切なものなのに、折り合いをつけるのが難しい。自己幻想と吉本の呼ぶものと、対幻想と呼ぶものが別個のものであり、別の出所をもって相容れない領域を作っているという思想はそういう実体験に裏打ちされています。吉本はどこかで、精神のあるあり方を取った時に、その時代のあらゆる主要な問題がその個人の精神にすべてのしかかる、そういうあり方、位相というものはあるのだと書いています。すべて、というのは社会の問題も、家庭の問題も、個の精神の問題もということでしょう。吉本が試行に論文を書き続け、私たちはそれを読んで感銘を受けるけれど、それを深夜、ひとり家の隅で書き続けた吉本の精神には、その時代のすべての主要な思想の問題が自分自身の問題として体験されたのだと思います。それが吉本の文章の行間というか、直接には書かれはしなくても存在する思想的な肉体、思想の母胎です。
しかし読者としてはここまで徹底的な生き方をしてもらえると勇気づけられます。私も平凡なことですけど、自分の職場で問題を抱えています。私は私の考えたことを発言しただけですが、それが上司との対立にすすんでいます。ところで私が考えたことを発言したということは、当然ながら私が正しいという保証にはなりません。上司もまた上司が正しいと考えることをもとに私に対立しているわけですから。上司に対して反抗しようが、政府に対して反抗しようが、その反抗の正しさの問題はおのずから別物です。ではどちらの言い分が正しいのか、どちらが間違っているのかは何が決めるのかと言えば、それは現実が決定すると思います。現実というものをどちらがより正確に把握しているのか、職場は仕事の場で、職場は社会に開いているわけですから、社会と職場の把握においてどちらの考えがより正確であるか、それが決定すると思います。
そして現実がその潜在させていた実情を露わにし、そして現実の問題をマグマのように吹き上げ一刻も猶予のない対応を迫る、ということが起こるには時期とか段階とかいえるものがあると思います。しかしいつかハッキリするわけですよ。
今回の世界恐慌のように。ノーベル賞を取ろうが政府の高官であろうが、考えの現実との適合性というものはいずれ過酷に審判されます。
吉本が持続力を最大限に発揮して作った大論文と言えども、もしそれが言語の現実や国家の現実や心の現実に適合してなかったとすれば、歴史のゴミ箱に放り込まれてしまうだけです。いくら頑張っても涙を流して苦労しても、それは客観的な審判には通用しない。ダメなものはダメだということになるだけです。だからそういうふうに時間のスパンを取って考えれば、結局薬局自分なりに徹底的に考えて、正しいと思えたものは勇気をもって発言し行動した方がいいということですよね。だってそれでいくら当座の仕返しを喰ったとしても、いつかは正しかったのか正しくなかったのかが明瞭になる時期が来ると思えばね。ケリはいつか必ずつくもんです。
生活の重さに耐え、社会の敵に耐え、自分自身との格闘に耐えて生み出された吉本のような大きな思想が、観念としての思想が、吹き上がる現実の対応の問題となって、その全貌を多くの人にあらわすの時期も必ずやってきます。ところでそろそろ、その時期が本格的にやってきそうな感じがする今日この頃、みなさまいかがお過ごしですか?(-_-)」