「方法的な制覇は、必ずや完備せる制覇を生む」(文法について)

カッコイイ言い方で好きですが、要は物事を考える時に原理的な方法をどう周到に用意したかで、その考え方の成否は決定されるということでしょう。戸締り用心、火の用心っていう・・・それは関係ないか(・-・*)

おまけです。「言語にとって美とはなにか」のあとがきです。

 あとがき           吉本隆明

本稿は一九六一年九月から一九六五年六月にわたって、雑誌「試行」の創刊号から第十四号まで連載した原稿に加筆と訂正をくわえたものである。この雑誌は半ば非売品にちかい直接購読制を主な基盤にしているので、連載中、少数のひとびとのほか眼にふれることはなかった。わたしは少数の読者をあてにしてこの稿ををかきつづけた。その間、わたしの心は沈黙の言葉で<勝利だよ、勝利だよ>とつぶやきつづけていたとおもう。
なにが<勝利>なのか、なににたいしてなぜ<勝利>なのか、はっきりした言葉でいうことができない。それはわたし自身にたいする言葉かもしれないし、また本稿をかきつづけた条件のすべてにたいする言葉であるかもしれない。ただなにものかにうち克ってきたという印象をおおいえなかっただけである。
(中略)
つぎに、勁草書房の阿部礼次氏から本稿を出版したいという申入れがあった。わたしはこのときも、よくよんだうえで本気でよいとおもったら出版するように求めたとおもう。阿部氏はよほど非常識だったらしく、やがて本稿を出版することに決めたという返事があり、わたしのほうもそれではと快諾した。校正の過程でも、怠惰と加筆で散々な迷惑をかけたが不満らしいことは、わたしの耳にはいらなかった。阿部氏がいなかったら、本稿は陽の目をみることはなかっただろう。
未知の前で手さぐりするといったわたしの作業の労苦よりも、阿部氏のような存在や、本稿を連載中のわたしの周辺の労苦のほうが、この社会では本質的に重たいものにちがいない。わたしは本稿にたいして沈黙の言葉で<勝利だよ>とつぶやくささやかな解放感をもったが、阿部氏やわたしの周辺は本稿の公刊からどんな解放感もあたえられないだろうからである。