「僕にはまだどうしても現実の構造がわかってゐないらしい」(断想Ⅵ)

初期ノートを書いていた時代の吉本は、戦争中に信じていた世界観を打ち壊されてマルクスの世界観に始めて触れて衝撃を受けている頃なわけです。私が世界観に大きな衝撃を受けたのは、近年では小泉政権ができて以降のことです。小泉と竹中が郵政の民営化を強行した。そして一方で日米年次改革要望書というものの存在が始めて注目されました。要するに小泉政権の掲げた郵政民営化を含む改革なるものは、アメリカの日本政府に対する要求の忠実な実行にすぎないことがわかりました。もちろん小泉以前の自民党政権アメリカの要求に従って日本の政治を運営したことが分かったわけです。ただ小泉はその改革者を演じる国民向けのポーズと、内心のアメリカへの忠誠のギャップが大きく、その矛盾に通常の人間ならどこかににじみ出るであろう自己欺瞞に対するかげりのようなものが全く見えないことで際立っていました。小泉がにこにこして記者の前に現れて、得意のワンフレーズ談話を述べているのを見ると、内面性というものを持たない新しいタイプの人間を見るような薄気味の悪さを感じていました。
なぜアメリカは日本の内政である郵政の民営化を要求するのか。それは簡保郵便貯金という巨額の日本国民の資金を奪いたかったからだと私は思います。政府の保護を失った簡保郵貯の国民資金は、他の民間の保険や投資先を求めて民間市場にのこのこ出てくるわけです。その資金をその頃から圧倒的にテレビCMを制覇してきたアメリカの保険会社や、外資が乗っ取ったに等しい株式市場に向けさせようとしたのだと思います。自分たちの支配できる会社や市場におびきいれれば、なんとでも操作できる、つまり奪うことができるということです。これには反論もありえましょう。つまり自由な市場に日本国民の資金が参入することのどこが悪いのかと。しかし、そこが小泉以降私の世界観が変わったところです。
要するに株式市場も商品市場も為替市場も債券市場も大きくてっぺんから操作されているんじゃないの?という疑念が深まったということです。てっぺんとは国境を越えた国際的な資金を占有する者たち、銀行とか保険会社とか証券会社などの金融業の支配者、簡単に言えば超大金持ちであろうと思います。それはロックフェラーやロスチャイルドといった巨大財閥とその傘下にある資本家のグループです。
私の幼稚な世界観が変わったのは、ああそういう超大金持ち自体の存在について今まで全く考えたことがなかったなあ、という自覚です。あまりにも大きなものというものは、目の前にあっても考えるという対象化ができないものです。例えばお札。毎日使っていて目の前にあるものだけど、紙幣についてなぜこれが流通し、なぜ価値があるのか、誰がどのような根拠で作っているのか、正直ちゃんと考えたことがないわけです。それと同じように、超巨大な規模をもって動いている金融の世界と、それを動かす力を持っている連中について、対象化して考えるということ自体がないわけです。そのことが我ながら衝撃です。これがアジア人だってことでしょうか。それとも大衆だってことでしょうか。世界について考える、ということ自体が私は、そしてたぶんあなたも、大変に希薄です。
ただ感覚が、生活の感覚それ自体が不安感によって警告してくるところがあります。なんかこの世界は子供の頃からなじんでいた世界ではなくなった、というように。その理由は紙幣が金との兌換性を失ったことが大きいんじゃないでしょうか。金との兌換を失えば、紙幣は国債を発行すればいくらでも刷ることができるようになる。そして国家の巨額の財政赤字と引き換えに、膨大に印刷された紙幣が実体である経済を乗り越えて投資先を探すようになる。紙幣を持つものは利回りによって、さらにその紙幣を増加させたいものだから。そして株式や為替の金融市場が超巨大になりさらに国際的になり、その中でもともと大金持ちであった者たちの力を異常なほどに膨れ上がらせたのだと思います。私たちはそのこと自体をあまり考えない。しかし感覚は、そのことの与える不安感を感受します。一種の世界感覚として。それはこの世界のあらゆる大きな出来事が、背後から仕組まれているのではないかという被害妄想的な世界感覚です。自分たちが日常接する現実と思わされているものが、実はバーチャルな仕組まれたものではないのかということです。この被害感は今までのように親の子育ての問題、エディプスの問題ではなく、この世界の構造自体からやってきます。システムからやってくるわけです。時間がないので中途半端なとこで終わりますが、こうした巨大なマネーの世界を対象化しないと、きっと今後の精神障害やカウンセリングの問題に切り込んでいけないんじゃないでしょうか。そんな気がします。