「世には弱しい魂の主人がゐて、薄暗い軌道しか歩まないやうになってゐる。僕は、そのひとのためにのみ何かを語るようになりたい」(夕ぐれと夜の言葉)

弱々しい魂の主人というのは、やはり胎児期、乳幼児期に母親との関係で深くついた傷を無意識の中に宿している人、ということになるかと思います。そういう人の歩む薄暗い軌道というのは内面の軌道であって、内向的であり、おどおどしていて、万事受身であって、人付き合いが苦手で、いつも被害感に苦しんでいる、そんな内面の軌道を歩むというようなことだと思います。そういう人にのみ何かを語りたいというのは、吉本自身が自分を同類だと思っていて、そういう孤独に届く言葉でなくては書く言葉の価値はないんだと感じているからだと思います。この世の中の一番薄暗くて、孤独で、ほっておいたら衰えて枯れてしまいそうな魂に届く、そんな言葉を表現したいということです。そういう目に見えない心がこの世にあるんだということですね。
話はちょっと変わりますが、こういう初期ノートの適当な解説をけっこう書きましたが、書いていて気がついたことがあります。例えばこの初期ノートの文章から知としての問題を取り出せば、一つには胎児期、乳幼児期の母親との関係の傷の問題ということになるでしょう。その傷とはどのようなものであり、どのような影響をその後の性格形成に与えるのか。なぜ人間だけがそのような影響を深刻に受けるような長い母子密着の時期を持つのか。その傷と言語の表現というものはどういう関係にあるのか。知としての問題はいくらでも多様に取り出すことができます。そしてそこには幾多の知の巨匠たちがいて、知の世界遺産を残している。だからひとたび知の世界に入れば、広大な国に迷い込んだようにいくらでもさまようことができるわけです。
しかし一方で、そのこととね、一介のサラリーマンでおっさんである私が、特定の職場や家庭で凡庸で卑小な悩みや喜びを抱いて暮らしているという中で、そういう知の国から何を糧として支えとして取ってくるかということは別のことだと思うんです。それは別のことだということは、あまり言われないけれどもさ、私はこだわっちゃうわけですよ。いっしょくたにしちゃダメだという気がする。
知の国というのは普遍性というものを求める世界だと思う。誰もが共有できる真実というものを求めて、ひたすら広く深く普遍的な知を開拓していく世界です。
ヘーゲルの思想みたいなものをイメージすればいい。ああゆう総体性、普遍性、論理性、徹底性。マルクスでもいい。ニーチェでもいい。そいう巨匠たちが一身で体現している世界が知の世界だと思います。
そういう世界は書物を通じて入ることができる。また出て行くこともできます。
入りっぱなしってわけにはいかない。どうしても入って出てきます。その時に、どこに戻るのか。薄暗い軌道を歩む弱々しい魂の中に戻る。ぶっちゃけぱっとしない生活と、うじうじした貧しい悩みと喜びの中に戻る。そうでしょ。その時に、広大無辺な知の世界とは何でしょう。
しかしもしかしたらそれはデッカイ勘違いなんじゃないか。実は小さな生活の世界は、底知れない規模の宇宙であり、巨大な王国と建築物に見える知の世界も、その宇宙のおおざっぱな地図のようなものにすぎないんだと、私は思いたいですね。知の国に出入りした後の、一介のサラリーマン、お腹の出た加齢臭を気にするオッサンとして。こっちのほうがデカイんだ。なめんなよ、みたいな感じで。
しかしそんなふうに思ってみたところで、やはり相変わらずあくせくした生活はひたすらあくせくしているままです。知の国の中を知ったかぶりで解説するのではなく、知の国に出入りした後の、築60年のボロ家に老母と犬とネコと暮らしている私の場所からちょっと書いてみます。
私が自分のうんざりするような弱々しい魂と、その55年になる薄暗い軌道の人生について、知の巨大な国から持ち帰ってきたものはわずかに一つくらいです。
それは母親との関係に傷ついたその傷を癒すものがあるとしたら、ひとりの女性とお互いに好きだと思って暮らすってことだということです。そんなこと言って離婚してんだから世話はねえわけですが、でも老人が杖に寄りかかって歩く、その杖のような知はそれだけですね。その知に寄りかかって薄暗い軌道を歩いている。ぶっちゃけそんな感じです。知の世界に出入りした後の、ありふれた日常の世界ではどんな知の世界の高級な観念もありふれた姿に変わります。馬車はかぼちゃに、ドレスは普段着に、白馬はねずみに。しかしたった一つといえども、またありふれた姿をしていても、この杖は観念の杖であり、出入りした後の日常でつかえる杖です。この杖はもしかしたら私にとってのこの世界を物質的に変えはしなくても、白黒だったものをカラーに、冬だったものを春に変えるかもしれない。薄暗い軌道を抜けさせるかもしれないと思います。要するに女がほしいのか、っていえば要するにそうだけどさ、いろいろ考えてきたことの一切を賭けて言ってんだよこっちゃあ。
もうひとつお付き合いを願って、仕事のことを書きます。小さな職場の煮詰まったような人間関係。渡る世間は鬼ばかり。私はいま苦しいんですよ。ぶっちゃけ職場の上の人間から追い出されようとしてるんですね。かっこ悪い話だけど。そういう経験があれば分かるでしょうが、苦しいよねそういう職場にいるのは。
言っとくけど、仕事がダメだから追い出されようとしてるんじゃないんだよ。感情的なもんだね。そういうところでガマンしてると、体の調子も悪くなるし、暗くなるし、元気もなくなる。巨大な知の世界だろうと文化の世界遺産があろうと、その外側には貧しい現地人の掘っ立て小屋の中の生活があるみたいに。去年の暮れにアンコール・ワット見てきたらそんな感じだったんですよ世界遺産の外側は。
じゃアンコール・ワットは、その壮麗な世界遺産世界宗教の観念は、掘っ立て小屋の生活にとってなんだろうか。私がそういう掘っ立て小屋みたいな職場の生活で、知の世界からすがる杖のようなものを持ってこれたのは、ほんのわずかなものですね。それは要するにお客を一番に考えようってことですよ。そんだけのことだ。客でも消費者でも契約者でも利用者でもいいけどさ、買い手のためにやってんのが仕事だから、そのホンスジを通そうっていうことです。職場内のごたごたや私生活のごたごたを仕事に持ち込んで、例えば料理屋ならマズイもんを食わされたんじゃ、客はいい迷惑だ。だからうまいもんを食ってもらうことがホンスジで第一義だっていう、誰もが言いそうなこと。でもそれが日々の小さな地獄みたいなもんを耐えていく杖ですね。
あと、知の世界で三木成夫さんが言った、精神の活動は息をとめてしか行われないという公理のようなもの、それも杖ですね。ああそうか、と生活の中で体得した。ホンスジを通して客を第一義に考えることは、目に見えない客を取り巻く関係を観念で見ることだ。それは息をとめて行う精神の作業だ。だから苦しく努力になってしまう。しかしその努力という苦痛を超えないと、客というところまで仕事が届かない。苦痛を避けると、視界がせばまって、身近な不愉快さだけが心を占めてしまう。だからがんばるきゃねえんだよなあ、みたいな平々凡々とした結論。でもほんとうに自分のものである実感のこもった平々凡々たる観念だ。
知の世界の中で語れば、たくさん本を読めばそれなりに大所高所に立ったようなことが言える。私は吉本の本はたくさん読んだから、駅前大学の三流の講師みたいなことは言えるかもしれない。でもそこから出入りしたところでは、たったこれくらいのことを支えに歯を噛みしめてよたよた歩いているにすぎないし。そんなことをちゃんと書いてみたかったわけですよ。正直でしょ( 。・・。)