● 「与えられた任意の場所から出発するための条件。われわれは常に用意されてゐなければならない」(断想Ⅶ)

吉本の講演CDで聴いたんですが、吉本は福岡を例に取って彼の都市論を語りました。そしたら聴衆から質問があったんです。もし役所の都市計画課とかで仕事をしてる人が、吉本さんの都市論に共鳴していてもそれが実現できない現実があったらどうしたらいいか、というような質問です。それに対する吉本の答えは、役所とは独立した自分の都市論の構想を常に用意しておくことが大切だと思うというものです。行政の現実の中でその自己構想が2割だけ生かせるならそうすればいいし、5割以上生かせるならその人の構想をどんどんやればいい。もしまったく生かせない現実なら、構想として練り続けて、生かせる状況が回ってくる時を待てばいい、というものです。つまり用意されている、というのは現実がどうであれ思想としての構想をいつも持っている、練り上げているということだと思います。もしも多くの人々が、自分たちの社会に対する構想を、一人一人の胸の中に確固として持つことができるなら、それは現実の舞台が回ってきている状況か否かに関わらず、世界がもう変わっているということです。それが吉本が自立という概念で抱いた構想だと思います。

おまけです。
落語に枕というものがあります。噺に入る前のツカミのようなもの。吉本は批評に入る前の枕がとても面白いと私は思います。聴衆をわっと沸かせて、そしてスムーズに噺に入るのが落語の枕なら、吉本の批評の枕は読者の心を大きく捉えて、そして狭く深い批評の本筋の中に導きます。名人だね。

ヘンリー・ミラー」          吉本隆明

 ヘンリー・ミラーは、いままであたってきた文学者のうち、はじめての<大物>である。<大物>と云う意味は、まったく単純で、柄が大きく、骨太で圧倒的な迫力をもっているが、すこしずつ底が抜けていて、あらもここかしこにみつけられるという程のことになる。このミラーの圧倒的な力の感じは、現存の世界では、ほかにそれほど求められないのではないか。
 ヘンリー・ミラーの特徴をひと言でつくせば、<徹底>性ということにつきる。
しかも、この<徹底>性には、すこしも非凡さ、特異さという意味は含まれていない。父親はぐうたらで、下卑ていて、楽天的で、母親は神経質で、冷淡で、わが子にすこしも愛情などもっていないで、ほんとうはじぶんしか愛していないといった夫婦から生まれた、頭脳の鋭敏な息子を想定してみる。幼児のときから、いちはやく皮膚をわいざつな空気にさらされて、まわりを小馬鹿にすることを覚え、近所の餓鬼たちをあつめて、手のこんだあくどい悪戯や、盗みや、反抗に手を染め、すこし大人になってからは、学校にはすぐにおさらばし、浮浪生活に入ったあげく、たかり、無銭飲食、スケコマシなどを常習にしながら、結局、じぶんがどうなればよいのか、まわりの世界がどうなればよいのか、わからなくなってしまった人間、また、肉体の隅々までを、現実社会の病菌に侵させることで、均衡を保っている人間、倫理的でもなく反倫理でもなく、この世の地獄そのままの人間、社会の下層の吹きだまりに、どこにもいそうな、そこし性格破産気味の人間をかんがえてみる。
 こんな人間の日常生活を、そのまま<徹底>的に、多少の誇張や詠嘆はあっても、つつみかくさずに拡大鏡にかけたらどうなるのか。ことに、たれにも多少のとりつくろいがある<性>の世界だけは、すこしも取りつくろわないでぶちまけるという戒律を課したらどうなるか。それが、たぶん、ヘンリー・ミラーの世界だ。ヘンリー・ミラーの世界に<性>が露骨に、えげつない描写で登場したとしても、まさにその通り、そういう境涯のたれもがかんがえそうで、やりそうで、という以上の重さはない。ヘンリー・ミラーにとって<性>は、あるがままの比重で取りあつかわれるべきで、それ以上であっても、それ以下であってもならない、とくに決してそれ以下に扱われるべきものではない、とかんがえられている。すくなくとも、かれの作品でみるかぎりはそうなっている。