「1950年代に入り、自殺者相継ぐ。プロレタリアートの貧困、中産階級の窮迫は急。電産、金鉱連、ストに入る」(序章)

これは当時の世相であって、書いてあるまんまですね。敗戦後5年経ったあたりの日本の社会の姿を書いているわけです。空爆で主要都市が叩き潰され、働き手が戦地で大量に亡くなっていますから、経済状態がいいわけがない。焼け跡の世界です。
そうした中で吉本は自分も貧しい側だし、貧しい人の側に立って闘おうと思っているわけです。その決意から様々な問題がやってきます。
その様々な問題は大きく言えば社会に対する個人の倫理の問題です。この社会の現実に対してお前どう思うんだ。お前は何が正しいと思うんだ。お前はそれで何をするんだ。そういう問いにどう答えるか、という最近はすっかり流行らなくなった問題です。
なぜ流行らなくなったのかというと、少なくとも日本も高度成長以降仲間入りした先進資本主義の社会は豊かになったからです。少数の連中が富み、少数の連中が権力を握り、少数の人間に多数の人間が支配される、それは先進資本主義でも変わらない。しかし底上げというものはあって、貧しい連中も豊かな社会のおすそわけであずかる、というか豊かな連中の支配の下でも実質的に労働していることの分け前を勝ち取っていった、というかどう言ってもいいですが、命がけで反抗する気はなくなる程度には全体的に豊かになりました。そして肝心かなめのことですが、社会主義を表看板にしていた国家群より先進資本主義国家群のほうが底上げされた豊かさをもつようになったわけです。社会は要するに豊かなほうが勝ちなんですよ。われわれ一般大衆はぶっちゃけ豊かな社会のほうが好きなので、正義だの理念だの未来性だのより今日明日の生活が豊かである社会を支持します。私もそうしますね。
だって子供は育てなきゃならないし、ローンは返さなきゃならないし、もう少し広いところで暮らしたいし、じいちゃんばあちゃんにも金がかかるし、ですよ。
どうすんのこれを。金なんだよ。金や社会の便利さや福祉の制度やそういうものがダメな社会よりダメじゃない社会、お米が高い社会より安い社会を選ぶんです。そうでしょ。
その結果、要するに貧しい側に立つという理念が死んだんですよ。第一に貧しい側という階層が底上げされて豊かになったから。貧しいうちは団結するけど、豊かになれば個人個人の消費生活が主になってばらばらと散っていきます。それでいいじゃないですか。個人の自由に生きるのが一番たいせつなんだから。第二に貧しい側に立つというマルクス主義イデオロギーが死んだんですよ。そのイデオロギーを表看板にしていた国家群が、金儲けや欲望と福祉を適当にバランスをとってやりくりしてきた資本主義の国家群に負けちゃったから。だから当時の若い吉本の心情は現実基盤を失って死んでしまっています。いま当時の吉本のような、貧しい側に立つという考えをもつ若い奴なんて極めて少ないでしょう。それは悪いことではない。
そして社会思想における倫理の問題、お前はこの現実の社会にどういう倫理をもって生きるんだという問題は、今はまあ考えないでもいいかということで棚上げになっているわけです。そうでしょ?あんたも真剣に考えてないでしょヾ(ーー )
でもこの問題は死なないんですよ。今でも地球の半分は餓えているわけです。また豊かな、いつまでも豊かに続くと思えた、少なくとも地上の半分の楽園である先進資本主義の世界でさえ、たった今アメリカの金融帝国の崩壊という原因で崩れようとしています。そしたらまたこの問題は息を吹き返します。人間を倫理が捉える恐ろしさ、倫理という人間が生み出したはずのものが人間を捕まえる恐ろしさは、ちょっと豊かな時代が地球の半分で続いたくらいで死なないと思います。
そんな難しげに考えなくても、貧しい人や困った人がいたら余裕のある人や、そういう仕事が好きな人が助ければいいじゃん、くらいに思ってるでしょどうせ。
わかってんだよこっちゃあ( ̄ρ ̄) でもそれは豊かな社会の中の常識にすぎないんですよ。社会が危機に瀕してくると、必ず締め付けがやってきます。それは観念の締め付けから始まるんですよ。銃や警棒で脅すんじゃない、観念の締め付けは必ず観念の脅しから始まります。「いま振り込め詐欺オレオレ詐欺が横行しています。あなたもその被害に遇うかもしれません。大切な虎の子の貯金を奪われたらどうします。今日もこんな事件があってお年寄りが泣いています。だから警察はあらゆる銀行のATMや店舗に常駐します」これも脅しです。無意識の脅しと無意識の善意を操り、羊のように導かれたものたちを囲い込む観念の収容所が必ず新たな装いで登場します。豊かな時代には自由の旗手であったようなものたちも、その収容所の導き手に利用されていきます。
今はまだ津波のような世界恐慌が海辺の村を壊滅させた段階です。これから津波は膨れ上がり内陸の町まで襲いかかって来ます。その時に怖いのは津波そのものではないんじゃないでしょうか。津波の恐ろしさは貧しさです。資産を失い、リストラされ、給料が減り、物価が上がり、家を失いといったことです。それは耐えるしかありません。こんなに豊かに暮らせるようになったのはごく最近のことなんだから、また貧しい暮らしに戻るだけのことです。それよりも怖いのはなんだと思います。それは希望ですよ(〇_o)
新しい収容所、新しいイデオロギーは必ず危機の中の希望として語られます。そしてこの希望が怖いのは観念だからです。観念の怖さは一つには目に見えないということです。目に見えないから、目に見えないものが視えない人には視えません。そしてどんな観念の中にもウイルスのように紛れ込むことができます。もう一つはそれが人類に対するだましであろうと脅しであろうと、その希望の根底には人類が西欧を中心として数千年間考え尽くしてきた知の世界遺産が込められていることです。その希望を疑うことはできても、その希望に反抗することはできても、その希望を無にすることは至難の技だということです。吉本はそれをよく知っています。そしてその希望を無化する方法を生涯を賭けて考えてきたわけです。それが共同幻想と吉本が呼んでいる共同社会の規範や掟、その根底にある共同の倫理の問題です。ポルソナーレでは今後そういう問題を取上げるということなので期待しています。でも私は来年一月に試験があるのでそれまではゼミに参加できません。すいませんがm(__)mみなさんがんばってください。