「ヨオロッパは精神の課題を第一義と出来るに反し、アジアは現実の課題を第一義となすべきである」(断想Ⅱ)

アジアというのは要するに農業の中心の世界です。そして西欧とは工業中心の世界としてアジアを支配しようとしてやってきた世界です。そしてアジアは農業から工業へとその生産と経済を移していきます。脱亜であり入欧です。その最先端の優等生が日本です。このことが不愉快であっても、農業中心の世界や文化が個人的に好きであっても、この歴史の流れは止めることができません。それは歴史の必然と呼べるものです。その必然力は一つには人間の人間的な本性としての自然の人間化、つまり科学技術の追求の純粋性があるからです。純粋性というのは損得抜きの本姓ということです。抑えようのない追求の衝動が人間にあるというそのことです。もうひとつの必然力は生産の農業から工業への発展は、貧しさから豊かさへの移動だからです。農業よりも工業の方が生活が豊かになり、自由な時間ができ、便利になるからです。このことも人間の生活への欲望として押しとどめることができません。
ヨーロッパ人の西欧近代の社会はヨーロッパ人の手作りです。その科学技術のひとつひとつ、その制度や機構のひとつひとつ、その思想概念のひとつひとつは彼らの自作であり、血と涙と労力のこめられた作品であると言えます。ヨーロッパ人はそれがいいものか悪いものか知りませんが、とにかく彼ら自身が作り上げた近代の社会の中で、精神の課題に直面しそれを解決しようともがいているわけです。
それに対してアジアの近代はヨーロッパの輸入品です。ヨーロッパに支配されたから、あるいは支配されるのが怖かったから輸入したあるいは強制された外来品です。つまり借り物です。だからアジアの社会の課題は、上から降ってきた上っ面だけの近代の制度や思想を土着させるです。土着というのは自分たち自身で、自分たちの現実を抽象したものとして近代社会を作ることだと吉本は考えているのだと思います。思想を現実から切り離し、思想だけで自立しているかのごとく扱ったり、論議したってダメなんだ。アジアでそういうやり方をやってもダメなんだ。まずいかにして自分たちのアジアと西欧近代が同居しているような現実からじかに抽象した思想を作るかが課題なんだ、そのためには対象的な現象だけじゃなくて自分たち自身の体内にあるアジアの風土的な精神のあり方自体を抽象して考えることができるようになる必要があるんだ、ということだと思います。
こうした思想の土着化という課題は現在でも、こないだの田母神という自衛隊幹部の大東亜戦争肯定論騒動にも見られるように今もえんえんと続いている課題です。

ではおまけの詩です。

「韋駄天」          吉本隆明

きみはきみ自身を休ませよ
きみはいつでも任意な時に目を覚ませばよい
きみには追跡妄想がないし
もうゆくさきもきまつている
秩序というやつはまるで母の胎内だ
きみはそこで外傷をうけなかつたのである
おう一九五三年の炎のような夏
ぼくは韋駄天のやうに去る
きみときみのいくらか患はしかつた物語と
きみの善意と狡猾さと
卑しい感覚と
それらみんなにさようならを言ふ