「われわれは自分のなすべき仕事の進路について考へる。つまりどのやうな道を、どの程度のひろがりで、どこへゆくかといふようなことについて考へるわけである。そのとき、われわれが末知らぬ路を歩いていると感じられるならば、われわれは、すくなくともその道を行ってよいのである」(第二詩集の序詞(草案))

これは未知というか未踏というか、誰も行ったことのない孤独な道を自分は選んで進んでいこうと思うという宣言だと思います。仕事という言葉は、ここでは詩集の序として書かれているわけですから、職業という意味ではなく詩のような表現を行うことを仕事と呼んでいるのでしょう。この先どういう表現をして行こうかと思うときに、先のことは分からないけれど、誰も踏みこんだことのないけもの道のようなところを歩いていると感じられるような方向に行くという決意ですね。
吉本は表現をする、ということを生きることの本質的なことと感じているのだと思います。人間がひとりの人間と一対一で向かい合う独特の心の世界があります。それを対なる幻想の世界と吉本は名づけているわけです。この対なる幻想の世界はなんで独特なのかと言うと、それは自分が自分に向かい合う自己幻想と吉本が呼ぶ世界とはまず異質だからです。また社会や集団の中の自分のあり方と向かい合う共同幻想と呼ぶ世界とも異なるからです。この独自の位相をもつ対なる幻想の世界とはどんな世界か。それは一対の男と女のあり方、すなわち恋愛し、性行為をもち、結婚し、子を産むという関係にもっとも本質的な姿をあらわすと吉本は考えます。つまり性的な男女の関係が対なる幻想(対幻想)の本質です。
しかし人間の一対一の関係は男女の関係だけではありません。親子、兄弟でも一対一の関係はありえますし、男と男、女と女という一対一で向かい合う関係はさまざまにありえます。しかし人と人とが一対一で向かい合う心の世界を形成するかぎりは、それは根本的には男女の性的な関係、つまり対なる幻想の世界を本質としてそこから派生するというか変形するというか、男女の関係を本質としたバリエーションとして形成されるのだというのが吉本の考え方です。
この考え方はかなり世間の常識とかけはなれた考え方といえます。それは男同士の兄弟であれ、先生と生徒であれ、女同士の友達関係であれ、それが一対一の心の世界を形成するかぎりは、男女の性的な関係を根源とした性的な関係だといっているからです。ここで性的な関係というのは性行為をする関係という意味ではありません。男とか女とかということを性と考えると、その心の世界では男とか女としてしかあらわれることができないような心の世界を性的な関係と呼んでいます。それから現実の関係には様々な心の世界が錯綜して存在します。一対一の人間の関係といっても、その中には社会的な関係も、おのおのの自分自身に対する関係も、対なる心の世界の中に錯綜してあらわれます。だからここで対なる幻想の世界を本質的な性の世界とみなすという時には、あくまで原理的に取上げる
取上げ方でみなしているので、現実のありかたとしての人間関係のすべてを性的だというというわけでもないのです。
それでは男女の関係というものはどういうものでしょう。吉本は小林秀雄についての講演でこんなことを述べています。小林秀雄中原中也と、長谷川泰子を共に愛してしまう三角関係の恋愛におちいって、三者三様に苦しみぬいた人生経験をもっています。この恋愛を振り返って小林は男と女の恋愛が深まっていくということは、独特の世界におちいっていくことだと言っています。そこでは他のことはどうでもよく、ふたりの心の世界しか存在していないような感じになる。世間がどう思おうと、どう非難しようとそんなことはどうでもよくなって、馬鹿な極端なことをしでかしていく。そして二人がお互いをどう想っているというと、それは好きとか嫌いとかいうようなものでも愛しているとか憎んでいるとかいうことでもない、なんともいえない密接な距離に近づいていくのだ。まるで眼も耳も聴こえない世界におちいったように理性も分別も失ったような異様な情動の中にふたりでいるようになる。しかしこの時ほど、自分以外のひとりの人間を、わかったというか察知できるというか、言葉を介さないでも他のひとりの人間を感じ取ることのできる時はない。それが恋愛関係が深まるというかもつれるというか、がんじがらめになった時の状態だと小林は言います。そして小林はそれが人間が成熟する唯一の場所じゃないか、という言い方をしています。吉本はこの小林の言葉を述べながら、男女が惹かれあうのは、最初は容姿だったり、性格がいいとかそういうことかもしれないけど、二人の距離が接近していくとそういうことは必ずどうでもよくなるはずだと言っています。美人か不美人か、美男かぶおとこか、そんなことはどうでもよくなる。ではなにがそこにあるのか、なにが互いを惹き合うのかというと、それはその人の一種の表現、それは文章を書くとか絵を描くというだけの表現ではなく生きていること自体が一種の表現だという意味での表現されたものが惹きつけあうのだというわけです。
表現というのは意識的なものも無意識的なものもあるわけですが、人間の人間的な精神の働きの本質の部分を指しているのだと思います。表現するから精神が生まれる、あるいは表現することでそのたびに精神が生まれる。表現することによって自分が生まれ、自分の周りの世界が生まれる。精神として把握する限りの世界は、表現するということを本質とする、なんというかナマナマしいものである、そんな感じです。そして人間が表現をするということは、くわしく述べれば大変なのですが、簡単にいうと否定性なんだと思います。否定ということを繰返すことが表現というものの根源にあることだと吉本は考えていると思います。え〜、今日は法事があるので簡単にはしょった言い方ですいませんが・・そういうことなんですよ。
否定性という表現の根源を問題にするなら、それは未知未踏の方向に行くということになるわけですね。未知なる道を行くというのは、表現の根源に忠実であればそういう道しかないということです。だから生きることは詩的なことだと、吉本が谷川雁の告別の言葉で書いていることは別にロマンチックなことを言っているのではなく、根っこから考えた時の生きることの本質を言っているわけです。
表現の根源に忠実なることを詩と呼んでいるからですね。
ということは自分が自分に対する自己幻想の産物である文章の表現のような世界も、男女の恋のゆくえといった対なる幻想の世界も、本質的には未知の道を行くものだといえるでしょう。糸の切れた凧のようにどこへ行くかわからない、それが表現というものの純粋な姿だと思います。少なくとも後先を考えない、という人間の精神の一番本質のところを取り出せばそういうことがいえます。それがあまりにもキツイから、人間は人間であることを時々は降りて、動物や植物である部分の生命としてのありかたに癒されようとするんじゃないでしょうか。キツイですからねマジで。
だから倫理というものを考える時に、こうでなきゃいかん、というような単純な倫理は足かせでしかないんですよ。こうでなきゃいかん、というように単純に言えるように人間はできあがっていないから。倫理が足かせでなく、人間の人間的な本質を生かすようなものであるためには、人間をもっと本質から、また生命体としての重層性からとらえなきゃいけないと思います。今日は法事があるのでこんなとこで。