「僕らは、己れの環境を後悔することは許されてゐない」(断想Ⅰ)

前半で疲れちゃったんで簡単にすませます。すいません。
なんで自分の環境を後悔することは許されていないか。それは後悔するためには自分で意思をもって選択する必要があるからです。環境はものごころついた時にはそこにあったものですからね。親を選べないように環境も選べません。
でももしも私たちの意識を生み出した大きな意味での身体が、その環境に耐えられない不満を感じているなら、私たちは私たちの人間的な意識をもって環境を把握し、環境を私たちの身体が生きていけるものに変えることができるんじゃないでしょうか。それが人間の人間的なあり方だと思います。把握し変えていこう、つまり超えていこうとするのが人間なんですよ。不満だからって吠えるだけじゃ動物と同じですよね。

吉本の「カール・マルクス伝」は二部構成になっていて、一部は哲学の解明、二部は伝記です。この伝記の冒頭に吉本の重要な思想が込められています。最大の思想的な師であるマルクスに捧げた吉本の入魂の文章の一部です。

カール・マルクス伝 第二部 マルクス伝 プロローグ」  吉本隆明

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ここでとりあげる人物は、きっと、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。人間が知識―それはここでとりあげる人物の云いかたをかりれば人間の意識の唯一の行為である―を獲得するにつれてその知識が歴史のなかで累積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然の経路である。そして、これをみとめれば、知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。
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