「組織といふのは人間の精神の理論的判断の集成であることは違ひないとしても、その実られた果実でないことは確かである」(断想Ⅷ)

実られた果実どころか、きのうまでえらっそうに世界を脅していたアメリカ政府という組織は足元のアメリカの一般大衆から腐った果実のように見捨てられようとしています。しかし見捨てたくても結局政府のメンバーを入れ替えることしかできないでしょう。世界はまだ政府や金融システム自体を投げ捨ててしまえる段階にはないからです。またそういう展望を与える思想もありません。アメリカ人は日本人のようにおとなしくなく、ブウブウと政府や金融界を非難し、湯気を立てて怒り、デモをし、暴動を起こして町を火の海にするくらいはやるでしょうが、結局はもとの鞘に納まる。その鞘が、今の鞘より善いかどうかは保証の限りではありません。
そして思想というものは個人が担うしかないけど、これだけの世界恐慌を前にして俺一人考えたってしょうがねえ(ー’`ー;)という無力感は沸いてきますが、今の世界が本当はどう出来上がっているのかを見抜こうとする人には、今は千載一遇のチャンスであるとは思います。おおくのウソとダマシの背後に、あまりの崩壊のために隠しきれない真実が顔を出すからです。それをしっかり見て、先人の知恵を学びながらこつこつ考えを進めるしかないですよね。考えたことだけは、株式や紙幣のように消えてはいきません。考えたことは消えずに受け継がれるからです。間違っても恥をかいても、何度もだまされてたりウソをつかれてたりしたことが分かっても、へこたれずに考えようとするしかないわけで、考えるということが世界と闘うことですし、自らのビョーキを自らが分かり癒すことでもあると思います。

以下は「中学生のための社会科」という吉本の著作からの抜き書きです。

「自由な意志力」とは何か                吉本隆明

 島尾敏雄の戦争期を描いた小説に感銘と共感を禁じ得なかったことがある。
 奄美大島の人間魚雷の基地隊長である島尾敏雄が人間魚雷を格納する海岸の洞穴を拡張する命令を部下に伝える。だが部下は動こうとしない。明日にでも出撃命令が下れば出撃して再び生きて帰還することはない。部下は洞穴を拡張する作業などやる気が起こらないのが当然で、隊長の命令は無視される。島尾隊長は部下を非難することなく、黙って自分だけがシャベルを持って洞穴を拡げる作業をはじめる。
 島尾隊長には命令に応じない部下を非難する気分など少しもないし、部下たちも自分の生命を賭けた「自由な意志力」で、命令に服従して島尾隊長を援けることもしない。これは明日出撃して再び生きて帰還できないかもしれない死の境で、島尾隊長と部下の集団が「自由な意志力」だけで信頼し合っている瞬間の振舞いだといえる。つまらない優劣も差別もないし、不信のあげくの相互非難もない。「自由な意志力」を発揮し合った者どうしのあいだに成立している集団性なのだ。わたしにはこれ以外に個人と「国家」と「社会」を貫いて歪曲されない「自由」は考えられない。集団や公共によって禁圧や制約を受ける自由などあり得ない。もちろんその逆もおなじだ。
 (中略)
 統率力のある指導者というのはファシズムであっても、ロシア=マルクス主義であってもダメな人物であるといっていい。(省略)
「自由な意志力」以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ。これはかなりの年月、本当は利己心に過ぎない「国家」「社会」「公共のため」の名目のもとに強制された経験と実感の果てに、わたしなどの世代が獲得した結論だといっていい。わたしはこれ以上の倫理的な判断に出会ったことがない。