「組織の下における精神の生産者はつねに疎外される。精神はつねにその深度をもってゐる」(断想Ⅷ)

この文章の前半は具体的に言えば、会社の中で会社の方針や上司の判断を超えて考えようとする人は煙たがられるというようなことです。組織というものは下の方の人間の意向を取り入れようとするか、あるいはワンマン的であるかに関わらず、最終的にはトップ、あるいは上層部の判断を命令として動くものです。それ以外の動き方は組織である限りはできないんじゃないでしょうか。何故ならば、組織は常に現実の状況に対してある目的をもって関わり行動するものだからだと思います。常に現実に対応するということは、現実に対して間を置くことのできない妥協を繰返さざるをえないということです。とにかく応急の処置を取りつつ進むという面がでてきます。そしてそういう場合の組織の決断を下すトップとか上層部という連中の考え方は、その社長とか理事とかが個人として考えていることそのものではありません。会社とか党とか団体とか国家とか、そういう共同体の振舞い方についてのその時代の考え方を無意識になぞっている考え方をしています。それは共同観念の中で考え、組織的な決断をしているわけです。
それに対して組織の一員である個人が個として考える世界は、いわば無限の広がりを持ちます。物事の考察を仮に生命の初源から始めてもいいしわけですし、遥かな未来まで構想を広げてもいいわけです。どこまで掘り下げていっても広げていっても個の意識の世界は進むことができます。従って組織というたえず現実と取り組む共同的な観念を基にした世界と、個として考える世界とはいわば別物の世界です。現在の会社などの共同体の世界は、個の世界が単に寄り集まって出来た世界などではなく、性の関係が男女のつながりを生み、家族、血縁集団を生んで共同生活をしていた歴史の段階から、血のつながりのない共同体を生み出す必要に駆られて人類が生み出した共同観念を本質とした共同性です。つまり共同の観念という歴史的に生み出された世界なわけで、それを吉本は共同幻想という概念で考察しています。すると共同観念、あるいは共同幻想の世界は、それ自体として考えないといけないもので、単純に個の観念の世界、吉本の概念では個的な幻想の世界と対比させたり対立させたりするものではないことになります。これは「共同幻想論」として提出された吉本の思想です。
この吉本から学んだ観念の位相の違いという考えは大変重要なものだと思いますが、いまだに常識として普及しているように思えません。現実の社会に生きるということはなんらかの組織の一員に好むと好まざるとに関わらず参加することです。学校であれ会社であれ地域であれ、そして国家ですね、まったく組織と無関係に生きるということはできないでしょう。同時に個の観念の世界というものも拡大を続けるわけです。吉本の言うような全観念領域の位相の違いというものをわきまえなければ、組織とか共同体というものを無視して個の観念の世界に埋没するのを良しとする人も出てくるでしょう。平たく言えば、会社や国家が何をしようが関係ない、俺は自分の好きな世界にいられればいいんで、最小限生活のために関わるだけだという態度も出てくるということです。一方では共同観念に個の観念の世界がまったく吸い取られてしまったような人も出てくるわけです。つまり会社とか国というものに全身を奉仕するというようになるし、そこから挫折すれば一切を失って抜け殻のようになる人も出てくるということです。あるいはそこまでいかなくても、個の世界に対して共同体の立場から説教をしたり、共同体のあり方に対して個の世界から反抗したり憎悪を向けたりするという人も出てくるでしょう。いまもいっぱいそういう現象はありますが、それは吉本の考察以前の味噌も糞もいっしょにした考えなんですよ。そしてそういう共同性と個の位相をわきまえないやり方は必ず壁にぶつかってしまうわけです。ぶつかってしまうところで心は追い詰められ様々な障害の姿をあらわします。
共同性の考察は共同幻想の世界として考察し、個的な精神の世界は個的幻想の世界として考察し、性や血縁の世界は対なる幻想の世界として、それぞれそれ自体として講考察して、そしてその相互の関係を観念領域全体の構造の中で考える、というのが少なくとも吉本以降の考え方の展開というものです。それくらいはしないと、必死で考えてきた先達たる思想者の立つ瀬がないです。
この文章の後半は精神には深度があるということです。この深度というように心の世界にも度合いというものを考えるのは吉本らしいところで、化学の考え方が身についているんだと思います。まずは単純に深さという概念を考えてみます。
心の深さというものをどういう時に体験するかを考えてみます。例えばある人との交流でその人の心に深さを感じることがあります。それはその人の知識から来るわけではないし、また人生経験があるからということ自体から来るわけでもない。人生経験が豊富でも深さを感じない人はいます。有名無名ということでもない、肩書きや経歴でもない、何か深みのある言葉をその人が語ったということでもない。なんかわからない出所から不意にその人の心の深さを垣間見ることがあるでしょう。いったいそれは何か。
深さということを言葉の持つ深さという面から考えると、吉本の概念ではそれは言葉には意味を指し示す機能だけではなく、価値を表出する面があるのだということになります。それは指示表出と自己表出という概念です。この自己表出という概念が言葉の深さというものに対応すると思います。例えば、意味としてはたいしたことを指し示していない詩とか歌に、なんか心が惹かれるとか、じーんとくるとか、ハートを感じるという時、それは言葉の価値を感じているわけです。
そういう言葉の面を自己表出という概念で考えています。これは「言語にとって美とは何か」によって展開された言語の本質論です。
そして言葉は心からやってくると考えるとすれば、言葉の価値はどういう心の構造と対応しているか。それを心の構造を時間性と空間性という機軸で構造化されたものと考えて論じるのが「心的現象論」です。やたら急ぎ足で進みますが、この吉本の三部作以降の吉本は、三木成夫の業績に出会っていわば自分の原理論を解剖学的に位置づける機会を得たと思います。解剖学的に位置づけるということは、生命という徹底的な初源性から人間の人間的な本質である心や言葉を位置づける可能性を手にしたということです。そして深さという概念は解剖学的に言えば、あるいは生命の人間にいたる過程に即していえば、内臓と関連するのだというのが現在の吉本の三木成夫を踏まえた到達点なのだと思います。これは心を脳機能に還元する思想に対する吉本の全思想を込めた異議申し立てでもあります。
ここからがきっと現在としての吉本以降なんだと思います。吉本隆明は批判するにせよ否定するにせよ自由ですが、踏まえることなしには先に進めない存在として高齢の今もなおありつづけていると私は思います。