「信仰といふのは一種の収斂性。精神の収斂感覚である。人は信仰によって何を得るか。ひとつの不均衡である」(断想Ⅵ)

これも吉本自身の戦争中の信仰体験が回想されているのだと思います。死と取り替えられるかという、ぎりぎりの一点に収斂して問い詰められたところに生き神様としての天皇への信仰があらわれた体験です。
吉本は「一言芳談抄」という日本の中世の有名無名の宗教者の言葉を集めた断章録に興味を持っています。これは「疾く死なばや」とか「急ぎ死なばや」という言葉に象徴されるような生を厭い、死ぬか、あるいは生きながら死んだように生きることを理想とするという厭世の思想を中心とする書物です。ここに典型的に死に向かって極限まで収斂された宗教の姿を見ることができます。
それは大変にラジカルな精神の集中や収斂の姿ですが、一方でそうした一点に収斂した結論というものは日常の具体的な生活の中で自己矛盾にさらされます。生を厭い、早く死ぬのがいいんだ、という観念の突き詰め方が、観念だけで生きているわけではない人間の全生存とぶつかるわけです。たとえば腹が減るわけですよ。(´ρ`)。生を厭うんなら腹が減るのはおかしいじゃないですか。簡単に言ってもそういう矛盾に晒されることが、観念の収斂のさせ方の反面につきまといます。それが不均衡というものだと思います。

おまけです。「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトにあった吉本のインタビューの一部です。

糸井 もし吉本さんが
   「あなたはなにを大切にしてきましたか」
   と訊かれたら、
   どんなふうに答えますか。
吉本  そうですね。
   具体的な、というか、
   機能的なことで答えるとすれば、ですよ。
糸井  はい。
吉本  それは、自分が生きている現在を考えるときに
    なにに目を使っていますか、
    ということだと思います。
糸井  ‥‥なるほど。
吉本  例えば、少し前ですが、
   バブル経済のとき、日本は
   今の中国と同じで、
   アメリカに次ぐ経済大国だと言われていました。
   アンケートを取ると
   日本の人口の8割から9割の人は
   「自分は中流階級だ」という答えをしていました。

   そういう状態のとき、どういう目の使い方を
   すればいいかというと、それは、
   「中流の中以下の人が、
   どういうふうになってるかな、
   どう考えてるかな」
   ということだと思います。
   それが、その「とき」を
   本格的に観察し、解明する場合に、
   機能的にいちばんいいと考えています。
   人事問題から、経済問題まで、すべてがそうです。
糸井  真ん中の下のことを。
吉本  真ん中を「含んだ下」です。
   職業で言えば、中小企業から、
   個人企業の商売をしている人です。

  「“中”以下の人がこれからどうなっていくか」を
   ひとつ、主眼にして、
  生きてる今を考え、それを広げて
  自分のやってることに関連づけるんです。

  そこになんだか、
  ほんとうのことが
  隠れているような気がするんです。

  それ以外のことは、要するに
  個人の、遊んだりとか稼いだりとか、
  そういうことに属するから、
  それはまぁ、誰でも同じように考えてると
  思えばいいじゃないかと思います