「思考操作の可鍛性について。極めて精密に、極めて展性的に、行ふこと」(形而上学ニツイテノNOTE)

可鍛性というのは鍛えることができるということです。展性的というのは伸び広がっていくということでしょう。考えるということは鍛えることができる。極めて精密に伸び広がるように考えるようにしようと自分に言っているわけです。
考えることは人間の人間的な本質だと思います。人間の人間的な世界は考えることの生み出した世界です。社会とか国家とか法律とか経済とか、家族とか恋愛とか、学問とか芸術とか科学とか、人間と人間の関係にまつわるものは、人間が自然との長い歳月の代謝を通して観念を疎外し、その観念が発達した世界と吉本は見なしています。だからその観念というものをイメージや雰囲気も含める拡張した概念で幻想と呼んで、人間の人間的な世界の本質論としての幻想論を作ったんです。
この観念というものは要するに人間の考えということですが、この恐ろしさはけして消えることがないというところにあります。ひとたび人類が生み出した観念、思想、理念などは、考えるのをやめるとか、主張するのを禁止するとか、その観念の持ち主を殺害するとかしても消えることがないと吉本は考えます。人類の生み出した観念はたとえどんなに退廃的な悪魔的な都合の悪いものでも、消えることなく人間が考える限り存在し続けます。もしそうして生み出された観念を否定したいなら、その観念を包括し、もっと自由でもっと普遍的な観念によって飲み込むしかない。これが観念とか思考とかの大きな定義だと言っています。
私達のなにげない日常の中に、人類が考え始めて以降の考えの蓄積が存在しています。近所のお寺の中に、近所の市役所の中に、近所の学校の中に、家族の中に、レストランや遊園地やラブホテルの中に、教団の中にヤクザ組織の中に、人類が生み出した科学や文化や共同的な観念の蓄積が込められているわけです。ああ自然に戻りたい、昔に戻りたい、単純に素朴に生きたいと願っても、旅に出ても、お酒を飲んでも、この大げさに言えば全人類史の生み出した観念の蓄積というどはずれた重圧は個人としての人間を捉えて離しません。人間が人間的な世界において打ちのめされる時は観念の蓄積に抗することができずに打ちのめされます。頭がおかしくなる時は、観念の蓄積にがんじがらめにされておかしくなります。無気力になる時は、観念の蓄積にのしかかられて無気力になる。目に見えないその観念の蓄積された姿を視ることができることが、自分で立つ第一歩です。
平たく言えば、人間の世界はわかんないことだらけでしょう。朝起きて見るテレビのニュース、新聞の中身、会社に行って接する社会や経済の末端の姿、他人の置かれている状況や立場、夫婦や親子や地域の人間関係、街にあふれていく新しい風俗や文化の展開、正直わかんないことだらけです。あなたもそうでしょ?正直におっしゃい!\(`o'") ポルソナーレの教えるとおり、わかんないということが最大の恐怖であり、妄想の生みの親です。だからわかることが人間の世界を生きる上で重要なことなんだけど、「わかる」ということはこの膨大な人類の観念の蓄積を踏まえるということを本当は意味しているということになります。それは荷が重過ぎるじゃねえか!ということにもなりましょうし、ムリ!ということにもなりましょう。また現実的な即効性、有効性を求めたいのにそれじゃ抜け道がないじゃないか!ということにもなりましょう。しかし、吉本の考えでは、然り( ̄-  ̄ ) 抜け道はない、ということです。人間は人間の重圧になるようなものを自ら生み出し、次世代へ次世代へとその重さを蓄積していく存在だとも言えます。よほど勉強好きな人は、よーし!ということで燃えるかもしれませんが、仕事で忙しいし、暇な時は釣りをしたりデートしたりしたいんだよね、というフツウの人たちはいったいこの人間の世界の膨大なわかんなさをどう生きたらいいんでしょうか。
抜け道の一つはそれは人間の人間的な世界にすぎないとみなすことです。人間は人間的な部分だけでできあがってるわけではない、むしろ生命体として、哺乳類として、その中から人間的な部分が発生した。ならば人間的な息苦しい世界だけにつきあう道理はないとも考えられます。空を見よ、鳥は蒔かず耕さず刈りいれもしない、でも天は彼らを生かしているではないか、というやつです。人間以外のすべての生命体は、会社にも行かず、塾にも行かず、十マス計算もしない、それに習ってただ生きるために生き、子を生み育て老いて死ぬだけでどこが悪い?という考え方もありえるわけです。そして多かれ少なかれ、私たちはそういう生命体の原型に時折戻って、あるいは退行して、なんとかしのいでいるような気もします。
結局それぞれのやり方で、なんとか生きる気を養い、その上でこの人間的な世界の観念を相手取る気になったら、やはり人間的な観念のどれを取ってもほんとうは一筋縄ではいかない根底がある、と覚悟を決めた方がいいでしょう。そこで、思考は鍛えることができる、というような腹をすえた考えが吉本にも生じているわけです。激しい戦いが予想されるから、体や技を鍛えておこうという戦士の発想です。
吉本が初期ノートで書いている「思考の体操」という吉本発案のラジオ体操のようなものを紹介します。田原先生は毎日腕立てや、空手の蹴りの体操を何百回も繰返しているそうです(〇o〇;) それと同じように思考の体操を繰返して、思考の筋肉を鍛えてみるのもいいんじゃないでしょうか。
(初期ノートの117ページから)
第一型 思考の浸透と拡散とを同時に行使する演習をすること第二型 抽象されたものを更に抽象化する演習第三型 感情を論理化する演習 論理を感情に再現する演習これは一種のユーモアで書いているわけですが、考えるということを伸び広げ、観念の蓄積としての世界を分かっていくために大変意味のある思考の基本であると思います。