「判断のかぎりではないことが余りに多すぎる。」(下町)

「判断のかぎりではない」という言い回しは裁判官が判決を述べる時などによく使われます。判決もひとつの判断ですから。今回の訴えについてこういう判決を下すと、ちなみに、これこれの件についても判決を求められているけれども、こっちの件は今回の裁判とは関係のない事柄である、だからこの件については判断(判決)しません、という時に「判断のかぎりではない」という言い方をします。だからこれは判断できない、分からないというのとは違うわけです。
それで吉本はなんでこういうことを書き留めたのか。それはよく分からないし、判断のかぎりではない( ̄-  ̄ ) んですけど、たぶんこの時期の吉本は内面の問題に集中していたんだと思うんです。戦争直後の時期ですから、吉本の内面も、現実の社会も激動しているわけです。吉本は敗戦の衝撃に打ちのめされた自分の心になんとか論理を与えて組み立て直したいと思っていたでしょう。内観という言葉がありますが、自分の心を見つめる内観の必要に迫られていたんだと思います。しかし一方で現実の変動が吉本の意識に入ってきます。そして吉本は現実を認識する事が、特に敗戦後のその時に重要であることを知っているわけです。しかし、一度に両方はできないわけですよ( ̄~ ̄;)一度にふたつのことには集中できないでしょ。喩えて言えば、こういう文章みたいのを集中して書きたいときに、宅急便屋さんが来たり犬が散歩を求めて吠えたりするとイラつくじゃないすか。宅急便も犬のサンポも大事なんだけど、今は困るんだよなということですね。そういうイラつきを、感覚に触れてくる現実の出来事に対して吉本が感じてる気がします。そっちは後でやるから、今は判断しないよ!という感じじゃないでしょうか。
こういう文章から学ぶものがあるとすれば、それは吉本は内面と現実とを分化することができているんだな、ということではないでしょうか。吉本にとって現実は本腰を入れて科学的に、学問的に解明するべき対象です。同時に内面、心というものも本腰を入れて内観するべき対象です。それが文学ですからね。これを両方背負うということは大変で、あまりそういう人は少ないと思います。だいたいどっちか得意なほうに専念する人が多いでしょう。そして得意でないほう、現実のほうか内面のほうをナメて考えてすますわけです。吉本は両方とも本腰を入れる価値のあることが分かっていました。もともと化学の学徒であった吉本は、戦後社会科学を学んでマルクスの思想に出会います。吉本には自然科学で培った科学に対するセンスがあります。マルクスの思想を多くの人が宗教的に受け入れた時に、吉本は徹底して科学として受けとめたと思います。科学としてというのは、誰でもが実験して確かめることのでき、誰もがそう考えざるをえない普遍性をもつレベルまで追求した公理、定理、原理というものの上に認識を組み立てることです。
それは普遍性を求めるゆえに、個人の内面の情動とか無意識といった個々人の心の部分を分離して成り立つものです。誰にとっても真実であるというためには、その科学的な認識を個人個人の心の内部から分離して作ります。あるいは個々の心から抽象して、個人個人の心の具体性を超えたところに認識を作るわけです。
そういうものが科学であり、思考の抽象度が現実の具体的な認識とは次元の違うところにあるということが吉本には身についています。しかし自然科学であれ、社会科学であれ、精神現象についての科学であれ、科学的な認識は重要で、それがなければ現実の苦しみを越えることができないものです。科学の重要さ、科学の思考としての次元、科学の難しさ、科学の範囲、科学の限界、というようなことがよく分かっている人です吉本は。つまりセンスのある人です。
科学、それは同時に学問ということですけど、それがまったくないと、内面と現実を分化することができないんですよ。勉強秀才たれ、ということとは全く違うんですけど、生きていくために必要な科学的、学問的な基本的な認識というものはあります。内面と現実を分けることが出来ないと、どんどん現実の事象が内面に侵入してきて、あるいは内面の衝動をどんどん現実にぶつけてしまって、結局ゆきづまって、だまされて、あるいは人をめちゃめちゃに傷つけて、自分も絶望してボロボロになるんです。そういう時代になったということもあります。もう内面だけを大事にしていても、現実のエアポケットのようなものがあって、その中にいれば頭の上を現実が通り過ぎていってくれるような牧歌的な時代じゃなくなっちゃったですからね。そんな都会の片隅も、そんな辺境の地域ももうないわけですね。だからやっぱしここまで来たら、ある程度本腰を入れて、現実を心と分離したところで把握する方法を一般大衆、つまりあなたや私が学ぶことが必要なんだと思います。おっくうでしょうけども(+_+)