「僕は健全なる精神を畏敬する。だが信じられない」(夕ぐれと夜の言葉)

人間の人間的な本質、それは精神をもつ生命であること、そして精神というものは終わることのない否定性を根本に持っている。だとすれば病気とは何か。吉本が言うところでは、肉体の病気であれ精神の病気であれ、病気という概念を拡張するならば、人間が精神を持つこと自体が病気なのだということになります。人間が精神を肉体の本能的な繰り返しから否定性によって切り離し、肉体とは別個に存在するかのような領域に作り上げていったこと自体が病気の根源である。精神という存在自体が病気なんだ、それ以外に病気というものを医学以外の観点から根底的に規定することはできない、そう吉本は言っています。
しかし人間には精神に還元できない部分があり、動物や植物や無機物的なものさえもあるとしたら、そのバランスが取れた人間や社会のあり方を「健全」と呼ぶのかもしれません。そして吉本が生きた戦時下の戦争肯定の日本社会のある部分には、そういうバランスが取れたかのような「健全さ」が見られたのだと思います。人間が生み出した歴史や社会や文化に鋭敏な否定性を抱かない状態。社会のあり方や、政治のあり方、国家のあり方などを教えられるままに肯定していく風潮が蔓延している時代は一時的に「健全」でありえます。それは信じられないと吉本が感じる時、吉本の精神の否定性が時代や国家支配を越えようとしています。ではなぜ畏敬するのか。
それは吉本の、精神だけではない、いわば生き物としての全体性が、そうしたうたかたの「健全さ」の中に人類の最終の理想の片鱗を見るからだと思います。精神とか知とかいうもののあり方に、吉本が抱く疑問、それも否定性ですが、その否定のイメージの中に、健全に見える精神が、つまり戦争を謳歌し肉体を鍛え、真っ先に戦場を志願するような同世代の若者の姿に、あるいは今日も明日も永遠に変わらないかのような穏やかなアジア的な下町の生活風景の中に、精神性、否定性という人間の人間的な本質だけでは包括しきれない魅力を感じ取るのだと思います。そういう柔らかさが、弱さが、あるいは素直さが、吉本を偉大な歴史上の人物にしないわけです。世の中には精神や知によって偉大になりたい人はいっぱいいます。偉大になりたい人はなりゃあいい。( ̄。 ̄) 私は吉本の思想のほうが好きですね。

では詩をどうぞ。

「ある鎮魂」          吉本隆明

異存ないでしようか
そういうと
閉じた心に蓋をして
死体のように釘をうち
賢そうな顔をした

困るんだ
そんな言葉があるのを想い出した
困ることだらけになつてから
やつとわかりかけてきた
人間は水に浮くものだ
溺れるのは無理だ
暖かくなつたら泳ぎにゆきましよう
でも ずつと以前から泳いでいるではないか

泳ぐのをやめるために
海辺へゆこうとおもう
すべての雲 すべてのなぎさ
海に溶ける夕日に
眼ざしで語りかける
人間には黙つていていいのだ なにしろ
泳ぐのをやめているのだから

拒絶というのは病気だ
はじめから泳いでいない
やめることもいらない
この状態からゆくと
ひたすらに腸管のなかに吐息を吹き入れ
ついに みみずの姿になるのではないか
そうとしたらあそこへゆきましよう
ほら 医者がうなずいてくれなければ
どうしても出られないところがあるでしよう

たしかに
そんなところがある
微かな日の果て
霊安室を出てから
母のため涙をながしたことがある
死を運ぶ人が
とてもやさしかつたので
ひと粒の涙のなかに
海は凪いでいた