「ともすれば病理学が僕の苦悩のうちに入りこんできておびやかしたり、卑怯な振舞を僕に強ひたりする」(エリアンの感想の断片)

ここで病理学と言っているのは精神の病理学だと思います。つまり自分が苦しんで考えている時に、精神病についての知識が、俺はうつ病ではないかとか、分裂病ではないかと不安にさせるということを言っているのでしょう。「卑怯な振舞」とは何かよく分かりませんが、自分で責任を負うべき事柄を精神の病のせいにしようとするということではないかと思います。病理学の言う病気という観念を受け入れ、偉い人が考えた学問だから正しいのだろうと思い、あなたは何々病ですという医師の診断をよく分からないながら信じ、自分を病気という概念の枠の中の存在だと自分自身で見なしていく。そうすると当然に自分の心身の振舞いを、病気のせいにすることになると思います。病気という観念をよく分かってもいないのに受け入れたために、自分の病気なのに、病気の観念が自分の外側の手の届かないところに君臨し、自分は自分の病気に対してかしこまる、そんな感じです。ちょうど国家的な観念に対してかしこまったり、宗教的な権威の観念に対してかしこまったりするように、自分の頭の中の観念であるにもかかわらず、自分より上位のものとして、ものを考える途中でかしこまってしまうわけです。それを卑怯な振舞と言いたいのではないでしょうか。
卑怯でない振舞とは何かと言ったら、つまりけしてかしこまらないことです。かしこまらないというのは、なんとなく偉そうな人が偉そうに言うんだから本当なんだろうと信じ込まないことです。そこで受身になって判断を停止しないこと、多くの人が疑わずに常識として流布されている観念であっても、自分でよく分からない限りは、否定もしないけれども信じ込みもしないということだと思います。逆に言うと疑えということです。考えるという人間の本質的な人間的な部分の行為は疑うということですから、極端に言えば、オギャアと生まれてきて、すでに誕生前からこの世界に存在していた他人の作った観念のすべては疑うためにあるんだということになります。一切、例外の権威は認めない、疑えすべてを疑えという感じです。人間の人間的な核のところにはそんな苦しさというか、違和感というか、対立というか、そういうキツイものが含まれていると思います。
吉本が既存の病理学に対してかしこまらず、自分で精神の病理とされるものを分かろうとした思考の跡が「心的現象論」などの著作になっていきます。吉本が疑ったのは病理学の前提となる精神の病理という観念です。病気と病気でないものを区分しなければ、そもそも病理学は成り立ちません。いったい何をもって病気と健康を、異常と正常を分けるのか。そもそもそうした区分は本質的に成り立つのか。こうした疑いを持つと自然と病理学の世界の中に分け入っていくことになります。するとそこには西欧の巨匠たちによる緻密で圧倒的な病理学の体系が待ち受けています。疑え、すべてを疑えという魂を抱きながら、こうした巨大な体系に挑むのは、宮本武蔵が吉岡一門を何十人も切り倒していったような苦闘を強いるものです。しかしやっぱりそれはしなければならない( ̄~ ̄;) 自分にとって切実なこと、自分の生涯に関わってくることについては、自分自身の頭でせめて大きなポイントだけは理解しておくことが重要です。そうでないといつのまにか自分が自分以外のものに、自分の考えだと信じ込みながら操られ、枠を決められ、疑わない素直な気持ち(⌒_⌒)によって地獄の道を辿ることになるからです。そうじゃないでしょうか。
自分で考えるのをやめちゃった時点が、自分以外のモロモロのせいでイロイロうまくいかなくなっちゃったと考え始めた時点なんじゃないでしょうか。それはキツイ言い方だけど、自分の卑怯な振舞の結果なんですよね。だからその時点に戻って、自分の頭で分かるように考えなおさなきゃいけない。何度でもそれは戻って考え直せばいいと思います。私もそうしています。
吉本が病理学の観念を疑い、自ら検証しようとして自分の理論を作りますが、その結論としての理論ではなく、疑いをもった始まりのことを考えてみます。するとなぜ心の病気と見なされているものが疑わしいと感じたかという感性があります。それはひとつは文学です。文学を好きで読んできた吉本の体験が、いわば病気の内側の世界に目を開かせているわけです。病気というものは患者、病者と言われる人の外側からの医者、学者による観察や分類、対話や診療の結果で規定されていきます。つまり病人の外側から規定していくわけです。しかし病人とされている人にとって病気の内在性とは何か。それは別の問題です。文学はたいていちょっと精神のおかしい人が作りますから(+_+)言ってみれば病気の内在的な表現のようなものです。例えば夏目漱石は明らかに病的な症状が見られた人物ですが、その内在的な表現を辿ればそれは病気などというものではない、大変見事な緊張した思考と感性の維持が見られます。だったら病気というのは内在的なものから規定できなければウソじゃないか、というのが疑いの当初の文学の徒である吉本の疑念だったと思います。この疑念は誰でも持ちうる普遍的な疑念です。大きな思想というものは、こうしたそういえばそうだよな?というような素朴な疑問を手放さずに、とことんまで疑い考え抜いたものだと思います。