「倫理性とは、精神の単純化の所産である」(原理の照明)

ここで倫理性と言っているのは、集団化された倫理性、言い換えればいわゆる道徳というものだと思います。人間の精神の本質としても倫理という概念を使うのでまぎらわしいですが、そういう根底的な倫理のことを指しているのではないでしょう。戦争のような悲惨な現実があると、戦争は悪であり平和は善であるというような情緒としての倫理道徳観が当然生まれてきます。しかしそこにとどまっていては、観念の所産としての戦争を根絶やしにはできないということです。善悪ということを決めて、それで思考を停止するのではなく、観念の底までさらうような追及をしない限り、この世界が個人を踏み潰すことはなくなんないわけです。

今回は詩でなくて、「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトに掲載されている吉本のインタビューの一部を貼りつけます。これは学校の教師はどのように子供に向かい合えばいいのか、という質問に吉本が答えているところです。私は心がしーんとなるほど感銘を受けました。みなさんはいかがでしょう(  ̄O ̄)

(インタビュアー・糸井重里
教育の現場が複雑になればなるほど、
ふつうでいること、自然でいることは、
むずかしいかもしれないですね。
自分の自然体がわからなくなっている人も
多いんじゃないでしょうか。

吉本隆明
いまの先生を見ていると、
熱心な人ほどそうですね。
テレビなんかに出てくる模範的な先生のように
どうやったらできるか、
なんて考えています。
ですから、「自分なりに自然にやれ」
といわれても、
どうしたらいいのかわからないと、
熱心な先生は思うでしょう。

でも、僕は、そのあたりのことは
経験から、どうすればいいかはわかっています。

何の経験かと問われれば、
それは僕がもの書きで、
まがりなりにも何十年か食ってるということ──
まぁ、食えないときもありますけど(笑)、
食ってるわけで、
そこで会得したことが確固として
僕なりにあります。
その中でわかったことは、
どの職業でも
同じことが言えるだろうと思います。

帰するところ、最も重要なことは何かといったら、
自分と、
自分が理想と考えてる自分との、
その間の問答です。
「外」じゃないですよ。
つまり、人とのコミュニケーションじゃ
ないんです。

先生だったら「子どもに対して」
ということじゃありません。
子どもに対してちゃんといい授業を見せる、
実行するということは
主たることではないんです。
人に対して、というのは
あとでいいんです。

自分と、自分が理想と考えるもの、
そことの内的な問答が
いちばん大切なんです。

先生だったら先生なりに
「俺はどうなればいいんだろうか」
と、考えていることが必ずあるはずです。
人になんか、わからなくていいんですよ。
自分だけの心の中に
問答も反省も絶えずある、ということが、
「自分そのもの」にとって大切なんです。

問答の道の行き帰りの
回数が多くなればなるほど、
そこが豊かになります。
それは、最も価値あることです。
先生だけじゃなくて、何の職業であっても、
問答をくり返したそのことは、
ひとりでに、自然に出てくるんです。
無理なんかちっともしてないところで、
完全に出るし、わかります。
子どもは鋭敏だから、
なおさらよくわかるんだけど、
大人にだってわかられますよ。

自分の中の問答の行き来が
豊富になって、
自分の中にたまっていくことが、いちばんです。

先生は、子どもに何か教える必要もないし、
「おまえ、こうしろ」なんて言う
必要もありません。
問答の道を豊かにくり返している先生が、
ただ自然に振る舞っていること、
それが子どもにはいちばんいいんです。

その先生は、例えば、
子どもにきっとこういう印象を
与えるんじゃないでしょうか。

「ああ、この先生はこういう先生で、
 そのときのいろんな都合や加減で
 ゆらぐ人ではないな」
と。