「何故ならば…。僕はこの何故ならばという言葉が好きになった。何故ならば…。知らぬうちに僕はあの眼に視えない僕の敵たちと論争しているやうだ」(エリアンの感想の断片)

この敗戦直後の若い吉本の予想の通り、吉本の人生は争い、戦いの人生になっていきました。敗戦までは軍国少年として戦争の後方に加わっていたわけですから、生涯ずっと戦っていると言ってもいいわけです。吉本の物書きとしての魅力の大きな部分は、この闘うところにあります。また論争者として強いわけですから、吉本の論争史を追うことは、宮本武蔵がたった独りで宝蔵院や吉岡一門と決闘するの読むような興奮があります。吉本の人気は、勇敢に戦い続ける男の人気でもあると思います。
吉本の著作を読むことは、吉本の内的な対話、自分自身との果てしない対話の世界を追うことですが、論争や労働争議安保闘争の過程の文章は、社会の中の特定の他人や集団に向かって書かれています。あえてカウンセリングという観点から考えると、こうした論争、闘争の中に吉本の他者との関係、社会での振舞い方、いわゆる社会性のあり方を探ることもできます。私も吉本の社会性の持ち方に影響を受けてきました。そういう観点から書いてみます。
吉本という人を個人的には知りませんが、たぶんこんな感じの人です。恥ずかしがり屋で、伏目がちで、義理堅く親切で、いわば下町の職人さんのような、人づき合いは不器用だけど大変信頼はおけるオッサン。できれば庶民として町の中でひっそり暮らしていきたいと心から思っているような人。たいへんに内向的で自分で掘り下げた内面の世界を持っているために、てきぱきとした現実的な対応が苦手で、いつも、あ、あ、というように現実に対して言葉が遅れ、そのことでまた心が奥まっていくというような人。資質として持ってしまった鋭敏さや頭の良さや知識への徹底した欲求を、どこかで自ら疑っていて、インテリとして大衆から離れることに優越感を持つほど単純にはなれず、庶民生活に心身がなじんでいくには暗い資質が邪魔をする。居場所がなく、徒党が組めず、巨大な内面の世界を抱きながら、はた目からはぱっとしない多少だらしのないように見える毎日を送っている。それが著作家として高名な吉本ではなく、生活者としての吉本の姿なのだと思います。
そして吉本はこの生活者としての自分に固執しています。自分の社会性というものの基底を、組織の人間とか知的な人間とか、ある立場の人間というところに置かずに、生活者としての自分の具体的な姿に置いていると思います。逆に言えば、組織とか集団とか、知識とか、政治的な思想的な立場、徒党というものについて根源的な批判というものを内面の世界に築いているということになります。
その批判が常に吉本を生活者としての自分という基底に引き戻します。そして状況が変転し、状況が戦いの場を向こう側から吉本の前に押しやってきます。闘うということは、肉弾戦となることもあるわけですが、根本的には観念と観念の対立です。吉本には生活者として、また単独の思想者として通すべき筋というものを、よくよく考えて抱いています。その筋が通らない状況が向こう側からやってきた時にだけ、吉本はおびえながら、ためらいながら、臆病さをこらえて闘うのだと思います。それは人気のあった頃の吉本ファンの憧れたほどカッコイイものでも、痛快なものでもなく、もっと弱い、しかし勇気をふりしぼったものです。
吉本が闘いに乗り出すときに抱いている、通すべき筋、別の言葉で言えば闘いにおける原則とは何か。それはいろいろありますが、重要な一つは、ケンカする相手が単独である場合はケンカしてもいいし、しなくてもいい、それはどっちでもいいんだということです。しかし、もしも自分に対する批判が集団の名の下に行われた時は、必ず闘わなければならないというものです。普遍的な言い方をすれば、単独の個人に対して集団として行われる批判に対しては徹底的に闘うべきだという思想です。それは思想、観念のあり方とは単独で担われる時と、集団として主張される時とは、まったく別のものなのだという、吉本の観念についての考え方、観念に個的な幻想、対なる幻想、共同幻想という区分を設ける幻想論から出てくる考えかたです。集団によって行われる批判とは、具体的に言えば、誰かが誰かを批判する、しかし片方は個人だけど片方は例えば日本共産党とかの合同決議を根拠に批判するとします。そういう時は、必ずやんなきゃいけないということです。絶対やりすごしてはいけないという原則です。何故ならば(*‥*) たとえ小さな集団であれ、集団的な決議をするということは共同性なわけです。
ある共同性の観念の次元で個人を批判するということは、もしもその集団が権力を握るならば、個人の観念を権力をもって押しつぶすという可能性を持つということです。現実の権力を握れるかどうかに関わらず、思想としてはそうです。個人の観念の世界はけして共同的な権力によってつぶされてはならない、それが吉本の通す筋、闘いの原則の重要な一つです。平たく言えば、もしてめえらが権力を握ったら、そういうやり方で必ず個人を押しつぶす、日本帝国の中でもロシアや中国の共産主義権力の下でもそうであったように。だから貫くべき筋、原則としておまえらの観念を素通りさせることはできない。勝つか負けるかは度外視して、とことん互いの生涯と生活をかけてやろうじゃないか、ということになるわけですね(メ-_-)
そして闘うということになったら、生活者としての基底をまるごとむき出しにして闘うわけです。吉本が敗戦の中で見たものは、生活者としての大衆は命を的にして戦場に行って、死んだりぼろぼろになったりしているのに、知識人や政治家や文化人は昨日までの思想を今日の占領下の思想に取り替えて生き延びているという姿でした。生活者はまるごと戦争に関わって死に、あるいは餓えて敗戦下にさまよい、観念に関わっている権威や権力のある連中は再び復活して、えらっそうに演説したりしてるのは一体どういうことだ?恥ずかしくねえのか。生活者という現実の基底を巻き込む時に、知識とは観念とは文化とは何か。その深い疑いと、徹底して暴くという意思とは、吉本を安保闘争であろうが、論争であろうが、生活者として単独者として闘うという原則に導くわけです。
これをあえてカウンセリングの観点に置きなおせば、精神の障害のあり方の中に単独であることと、集団であることと、対つまりカップルであることの観念の次元の違いを考えようということになると思います。その混同が障害の根底にあるはずです。その混同の差し迫った姿が障害と呼ばれる心の苦しみです。闘わなければいけないところで闘わず、闘う相手でない者に戦いを挑み、闘う必要のないことに闘えないコンプレックスを抱き、闘い方の筋をわきまえない。闘わないでのんびり昼寝でもしてればいい客観的なる状況でも、毛を逆立てて身構える。そんな苦しみを緩和する方法があるとすれば、まずは生活者という基底に落っこちることではないでしょうか。稼いでメシを食って、風呂に入って掃除して、近所の人とつきあってお祭に出かける生活者としての自分に落っこちることは最小限必要な気がします。だってそこでは誰もが似たり寄ったりですからね。悪魔みたいな奴も、天使みたいな奴も、そう思えるのは観念とイメージの中であって、生活の中ではうんこもすればメシも食うわけですよ。
その上で、別にあわてることはないんだから、どっしりとあぐらをかいて観念のあり方の基本的な部分を、おおざっぱな大事なところを勉強したり考えたりしたほうがいいと思います。カウンセリングというものが役立つ部分があるとすれば、そういうことの手助けじゃないでしょうか。現実の障害の現場では、そうは理屈どおり問屋が卸さないことは知ってるんですけど、でも原則というのは明らかにしたほうがいいと思いました。
吉本のケンカのしかた、ということではもっといろんな面白いものがあります。
それはまた機会があればということで、ではバイバイキーン(。・_・。)ノ