「思考は抽象的なものから現実的なものへ向ふ操作である。現実的なものから抽象的なものへ向ふのは直覚である」(形而上学ニツイテノNOTE)

この直覚ということが分かりにくいです。私もよく分かりません。現実的なものから抽象的な原理に向かうものだって思考を呼んだっていい気がします。しかし言いたいことはこうなんじゃないでしょうか。
思考というものは概念を必要とすると考えます。概念操作が思考である。概念操作の範囲内でも抽象化や具象化はありますから、通常抽象的なものに向かうという場合、概念操作の範囲内の抽象化のことを指しています。しかし、概念なるものは既に存在しているものです。辞書にあるものですね。この概念を疑い、概念をいわば解体し、消去し、さらに現実の根底にあるものを求めるとすればどうなるか。
既存の概念を崩していけば、そこには言葉になる寸前の現実が混沌として広がっているわけです。とっかかりの失われた体験や印象や感覚の織りなす織物のように現実が広がっています。そこに心を凝らし、感覚を凝らし、凝集する架空の地点を探す。それが原理という共通性、根底的な同一性のイメージです。それを検証するために、ふたたび部分である様々な現実に当てはめていくことが思考なんだと言いたいんだと思います。そこでは原理によって概念ができていますから、思考が概念操作だという観点からはオッケーなわけでしょう。いろんな概念を疑い、剥ぎ取っていった底にある、身の回りの、しかしまるで見知らぬ異邦に来たような体験。そこで言葉を生んだ猿の祖先の苦しみと似たものが、「考える人」を襲います。そしてそれを「考える人」に耐えさせ、乗り越えたいと熱望させる背景にはその人の成育史と人類の発生しが交差する秘密があると思います。

では詩をどうぞ

涙が涸れる  吉本隆明

けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなつたから そうして
針のようなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の傷から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす
しめつぽい貧民街の朽ちかかつた軒端を
ひとりであるいは少女と
とほり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ほくらの武器を
かくしてゐる
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになつてあれはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みをからみ合わせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによつて
きみはぼくらによつて ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ