「僕は睡眠薬を口に含んで床に就いたが眠れなかった。効能書きには、それで眠れなかったら更に飲んでも無駄だと書かれてあった」(エリアンの感想の断片)

このあたりの初期ノートは、おそらく敗戦後間もない時期に書かれていると思います。敗戦ということを感情で受けとめることができず、思想としても構えを作れない苦しくて恥ずかしくてヤケクソで日を送っていた時期のノートでしょう。
それで不眠になって睡眠薬を飲んだけど効かなかった、そういうことです。それだけのことなんですが、ちょっと無理やりに話題を広げて、身体と心との関係について吉本がどう考えていったかのほんのさわりを書いてみたいと思います。
睡眠薬は身体に影響を与えます。脳の神経伝達物質に作用する薬物です。脳という身体に働きかけて、眠りという身体の状態を因果関係で導こうとしているわけです。しかし実際は睡眠薬は必ずしも薬学が想定している眠りを導きません。それは心があるからです。
身体と心の関係とは何か。内臓であれ、筋肉であれ、脳内の伝達物質や神経中枢であれ、そうした身体と、心と呼ばれる目に見えない領域との関係は何か。それは睡眠薬が想定しているような、身体にこう作用すれば、心は眠りを受け入れるというような一義的な因果関係にあるのか。もしそうであるならば、身体についての科学つまり医学ですが、それが発達し、遺伝子や脳内の微細な状態まで認識できるようになったなら、心は身体への適切な刺激(原因)を与えることによって、想定される結果を導くことができるようになるはずです。つまり医学の発達で心の問題は不眠であれ、精神病であれ、解決できることになります。それを信じる人は常に最新の医学、薬学に基づく薬物が心の病に有効だと信じて仕事をしているでしょう。しかし原理というものがあります。いくらやっても無効なものは無効だと見切るもの。それが原理です。では心と身体の関係において、原理は設定できるのか。そうした思想は可能か。
吉本がこのノートの時期から考え始めて、やがて心的現象論という老齢に至るまでの長い仕事をします。その心的現象論を始めるに当たって、心的現象論序説という原理論の本を書きます。その原理論の中で心と身体についての考察を書いています。吉本の結論は、心と身体は一義的な因果関係で繋がるようなものではない。とはいえ、心と身体に何の関係もないわけもない。そこで心と身体の間にはある構造が想定される。その構造を明らかにしない限り、心と身体についての論議や実践、精神医学とか文学批評とか文化政策とか教育とか、あらゆる分野に迷妄がはびこる。この仕事で俺はその構造を徹底的に明らかにするんだ、というのが吉本の決意でした。
心と身体を一番原理的に捉える方法を探して、吉本が見出したのはマルクス、そしてその師であるヘーゲルの方法でした。マルクスは人間の動物とは違う人間的な本質は観念を生み出すことだと見なしていると思います。では観念とは何か。
マルクスの経済、政治、革命思想の根底に、ギリシャ哲学を若き日に学んだことから作り出された自然哲学が一貫して流れている、というのが吉本のマルクス理解の根本です。マルクスはその自然哲学として、人間と外的な自然との原理的な根源の関係を規定しています。それは人間が外的な自然に向かう時に、自然を非有機的な身体にしていくというものです。人間の欲求にしたがって、人間の身体の拡張として自然を作り変え、自然という非有機的なるものを人間の有機的な身体の延長にしていく。たとえば乗り物は自然物から作られますが、それは人間の歩行の延長であるわけです。そして人間が自然に働きかける時に、自然もまた人間に反作用的に働きかける。そして自然は人間を有機的な自然にすると言っています。たとえば食物としての自然が身体に入れば、人間は自然の延長となる部分が生まれるということだと思います。ここがホントを言うと私にもよく分からないんですが、人間と自然が相互に働きかけを行うことで、人間はもともとの状態から変容していくわけです。この変容と、この変容を打ち消そうという欲求があると考えます。それが疎外という概念なんじゃないかと私は思います。違うという人がいたら教えてくださいね(^∧^)
人間によって変容していく外的な自然と、外的な自然によって変容されていく人間の身体とは、ある領域を生み出すのだと考えます。つまり外的な自然と人間の身体から疎外された領域が架空の時空に生み出される。それが心あるいは精神であり、観念作用だと考えます。それは外的な自然でも人間の身体でもないので、吉本は幻想と呼んだわけです。つまり心という領域は、マルクスの自然哲学である疎外の概念に従って考えると、外的な自然と人間の身体が根源的に関わって双方から疎外された幻想の領域なのだということになります。いったいこんな面倒なことを考えることでなにがどうなるのか。
それは、もしこの原理論が正しいとすれば、心はいわば身体とも外的な自然あるいは環境とも、直接の因果関係を持たない、つまり地続きではない領域として、身体に対しても、外的な自然や環境に対しても心自体の独自性をもって動くものと考えることができるでしょう。身体からも外的な自然や環境からも強い影響を受けながら、しかし独自の取り入れ方をするそういう領域を人類は形成してきたと言えます。そしてその心が表出されて再び自然や環境が変容し、その変容が身体を変容させ、その変容が幻想領域を疎外する。その複雑な過程、それがこの人間的世界の根源かもしれません。
心とは何かということを考察するなら、まず心というものが初源的に生み出される場面を想定し、心を身体とも外的自然とも違う疎外態とみなし、そのうえで心と身体や外的自然との間の構造を明らかにしなくてはならない、それが吉本の心とは何かの考察の最初にあった難問だったと私は考えます。そしてその構造をあきらかにすることに吉本はほとんど生涯を費やしたわけです。その思想の内容は宝物だと思うので、興味のある方は心的現象論の全体が公刊されましたので読まれたらよろしかろうと思います。