「僕は現実の社会なるものが、独りの人間に無限の可能性を以って、あらゆることを汲み尽す場を提供するものであると思ふ。しかも、それは他との関連なしにも。」(下町)

以前にも書きましたが、吉本は工科の大学を卒業した化学者です。自然科学の考え方が身についているのが吉本の特徴です。科学は自然の中から法則を発見しますが、自然を把握し尽くすことはできません。しかし把握しつくそうという欲望がなぜか人間の中にあるわけです。そして科学の発見を応用して文明が築かれていきますが、それは自然の中の部分を組み合わせたものです。この自然に対する自然科学の姿勢が、社会現実に向かう社会科学に打ち込む時も吉本の中にあります。
社会に対する理論は社会現実を汲み尽くすことはできない。果てしなく汲み尽くそうという欲望がなぜか人間にあるだけです。そして理論はどこかに汲み尽くせない未知に向かう窓が開いていなくてはなりません。それでないと現実や自然の底のない深さにみあわないからです。
ノートにこうした文章を吉本が書きつけたのは、当時も今も、体験されたナマの現実からではなく、どこかの大家が理論化した現実の理論から出発する人間が多いからでしょう。たとえて言えば、魚を魚屋から買ってきて、死んだ魚を現実と称するようなものです。魚は生きて大海原を泳いでいるのだと吉本は言いたいのだと思います。
最後に「それは他との関連なしにも」と謎のようなことが書かれているので面食らいます。これは表現が不足しているだけです。しかし、発表する義務のないノートの言葉なのでそれでいいわけです。
これは何を言いたいのかと想像しますと、個人が暮らす限定された生活空間を現実としますと、それは時間的な関連として歴史の流れの中にありますし、空間的な関連としてもっと広い国家とか世界とかに連なっていく空間です。そしてそういう歴史や世界との関連を知っていくのが知識の機能です。したがって、おそらく吉本は、ある個人は自分の関わる限定された現実からあらゆることを汲み尽くすことができるが、それが歴史や世界とどう関わるかという知識とは別個に成り立つのだと言いたいのではないでしょうか。これは汲み尽くすことが知識の拡大ではなく、知識がたえず戻っていく価値の根源と考える時に理解されます。
人間にとって重要なことは実は小さな生活空間の中に充ちている。傍からみれば平凡な繰り返しの人生の中に、傍からみればつまらない生活の中に、最重要なものはすべて充填されていて、汲みつくされることを待っている。最も残酷なことも、最も美しいこともそこに存在している。ただそれが「視える」かどうかが問題なだけだ。これは吉本の大衆についての考え方の根底にあるものであり、知識にとっての行き道、帰り道という課題でもあります。
わかりやすくするために、映画などでよく扱われる小さな村や町で育つ少年や少女の物語にたとえてみます。「アメリカン・グラフィティ」だとか日本映画なら「青春の門」とかです。私もひと頃しきりに考えたのですが、こういう小さな町や村に育つ経験とはなんだろうということです。少年(少女)はやがて知識を獲得し、大きな都会に出て行くかもしれない。そしてもっと広い世界を相手に仕事をしたり交流したりする。しかし彼が人生に対して深いところで持つ価値観は、その小さな町や村の生活の中で獲得される。思春期を通り過ぎるまでの、遊びやケンカ、家族や友達、教師や地域の人々との交流、恋愛や失恋、出会いや別れ。その体験の中に生きるうえでの重要なもの、価値の根源になるものがすべて含まれている。その後の知識の拡大や、行動範囲の拡大は、その価値観の実現にあたっている。あるいは価値観を実現しようとする意思と社会との激突にあたっている。そうだとすると、この小さな限定された町や村の空間は、ミクロコスモス(小宇宙)と呼んでもいい価値の深さを人生に対してもっている。
このミクロコスモスの価値の深さは、人間が生きているところはどこでも世界の中心でありうるということです。そこで身につけた価値だけが、拡大していく知識や生活行動の中で出会う人たち、世界中の人たちとの対等な交際の根拠になります。それぞれがミクロコスモスを持っているから対等であり、共感しあえる可能性を持ちます。
私は日本の政治家として田中角栄が凄いと思いますが、角栄が自分の人生を取材している記者に言ったという言葉があります。その時、角栄と記者は角栄の郷里の新潟にいました。角栄は窓から見える雪の降る新潟の寒村を指差して「あれが私の故郷であり魂なんだ」と言ったそうです。これもミクロコスモスの体験を指しています。
知識は人間の意識を拡大しますが、価値を豊富にするわけではありません。そうならば大学の教師が一番価値を豊富に持っていることになります。豊富な価値は小さな村をほとんど出ないで生涯を過ごす村のおばあさんなんかが持っているかもしれず、あるいは裸で暮らすアフリカなどの部族の人たちが持っているのかもしれません。知識というものに深い疑いを持ち、知識の獲得ということに反感を持つという若い吉本の感受性がこうした文章を残し、そしてこの感受性は後年他に類をみない思想を生み出していきます。
ゼミに行けないので詳しく書きました。長くてすいません