「人間の精神には元来信ずるという機能は存在しないのだ。だが、このことを血肉化するのは容易ではない。僕が当面してゐる第一の問題であるといふことが出来る。」(下町)

信じるというのは何かの絶対性を疑わないということです。一方、考えるというのは疑うということに等しい。そして考えるということは常に未知に向かうということです。例えば政治について考えるのは、政治を疑うからです。そして新聞やテレビで流通する通念としての政治の姿の背後に、誰も知らない真実の政治のありようを探します。それまだ未知です。その未知の認識に向かってしきりに考えるわけです。
ところで、未知があるということは絶対性が確定できないということです。絶対性なるものは知り尽くしたという前提がない限り、確定できないからです。だから人間の精神イコール考えるという精神の機能には信じるという状態は、常に遥か彼方にしかイメージできないことになります。
しかしそうであるなら、信じるということは思考停止と同じであり、信じるやつはバカでだまされているんだということに過ぎなくなります。
そうならば、なぜそのことを血肉化するのは容易ではないのか。何故それが当面する第一の問題であるのか。
それは吉本の感受性が、信じるということの中に思考停止とは別の要素を見ているからです。逆に言えば、考えに考えるということを、そんなに良いこととは感じていないのです。それは信じるとか、考えるイコール疑うということが、価値に関わるからです。ミクロコスモスに関わるからです。
信じるということの根源には、母子関係がある。逆に言えば、疑うことの根源にも、母子関係がある。母子関係という人間の、そして吉本自身の深い井戸の前で吉本は自分の考え詰めていく、疑い尽くしていく精神の機能そのものを見つめているのだと思います。
前が長かったので短めにしました。