「信ずるといふことは現実と自覚との断層を繋ぐことである。この断層が人間の主体性の象徴である。全ての弁証法は必然的に信ずる機能を強要する」

なまの現実に対して、現実に対する認識はつねに不十分で、追求を続ける途上のものとしてしか存在できません。認識を正しく扱うには、その認識が成立する範囲というものを知っていなければなりません。その範囲を逸脱すると、どんなすぐれた認識も思想も迷妄に陥ってしまうということが起こります。
現実と認識(自覚)には従って常に断層があるわけです。認識できないことは関われないとするならば、人間は永遠に現実に対して関われないことになります。しかし人間は認識できなくても現実に関わって生きていきます。認識が不充分と分かったまま生きることは、目をつむったまま運転するような怖いものなので、何かを信ずるということで越えていかざるをえない。信じるという普遍性の疑わしい、理性的には不十分な判断が人間にとって切実なのは、そういう人生の根拠があります。信じることによって断層を越える(繋ぐ)わけです。
この断層は信じるにしろ、信じないにしろなんらかの形で越えるしかないとすれば、そこに選択の問題が生じます。認識が確実ならば、認識にしたがって行動すれば足りますが、認識が頼れない状況を越える時に何を選択して越えるかに人間の主体性のあり方が問われると吉本は考えています。
最後にいきなり弁証法が登場するように見えますが、ある立場と、それと相反する立場、例えば霊魂に対する信と不信の立場があるとして、その双方の立場を包括して、双方ともに認めざるをえないより高次の認識を求めていくのが弁証法という思考のスタイルです。正、反、合などと言います。正と反を包括して合に至ることを「止揚」などと言います。弁証法という考え方が成立する基盤は、人間の認識が現実に対して不十分でしかありえないということにあります。たえず止揚していく、ということは現実の真実に、不十分な人間の認識が果てしなく接近していく道筋です。現実に対して認識が不十分でしかありえないということを自覚すると、現実に対して不十分な認識のまま認識の範囲を超えて関わらざるをえない人間の宿命が自覚されます。この自覚が主体性のあり方を人間に問い詰めるわけです。どっぷりと宗教的な確信を信じるだけなら主体性の問題は避けられます。また認識の絶対性をどっぷりと信じるだけでも主体性の問題は避けられます。宗教か科学あるいは思想に従って生きれば済むから、個人の選択、つまり主体性の問題は登場しないからです。そして主体性が選択する思考の型が弁証法であるとすれば、弁証法には根底的に現実に対して「より高次の、より現実の真実に接近する道筋があり、人間にそれが発見できる」という「信ずる」ことの上に立っているという(ややこしいですが)そういう言い方もできるわけです。いずれにしても、こうした現実と認識と人生を生きる切実さといったことを考えつめていくと、通俗的な信も不信も吉本の中で退けられ、よりむき出しの根源的な形をとった信と不信の問題が登場するのが見て取れます。吉本が単純に信、あるいは宗教の問題を退けなかったのは膨大な宗教に対する論文を生み出していったことでも分かります。特に親鸞についてとキリストについての論文は素晴らしいものなので、ぜひ読んでみられることをお勧めします。