「信ずるといふことと不信といふことは全く同義だ。信ずるといふことは、排除される以前に、存在しないのである(虚偽といふものの定義)」(下町)

この文章は表現が不十分なため分かりにくいと思います。それは表現した吉本の責任です。不十分な表現は無理に分かろうとする必要はなく、分かるところだけを感じ取って離れればよいのです。またこうした他人の文章に対する態度も吉本から教わったものです。
しかしそれでは解説になりませんので、頑張ってみることにします。
信と不信はいわゆる同義(同じ意味)ではありませんが、ここで言いたいのは次のようなことではないでしょうか。信も不信も現実に対する判断を根拠にしていますが、現実に対する判断(自覚)には不完全さがつきまといます。例えば霊魂が存在することを信じる立場も信じない立場もあります。信じない立場は科学的に立証できないという判断を根拠にするでしょう。信じる立場は疑いのようのない感覚的な体験を根拠にするでしょう。しかし科学も現実に対して完全な認識を提供するものではありません。また感覚的な体験を万人に普遍化するには立証や論理がいるわけですが、霊魂というものについてそのような普遍化は誰にもできません。つまり霊魂は信じる信じないという立場を取る段階になく、その存在の当否については「分からない」というしかない段階にあると思います。
霊魂の存在を完全に肯定するという立場(宗教)、つまり信の立場は、霊魂を立証できないがゆえに否定するという科学の立場を完全に否定して、つまり科学への不信によって成立します。科学の立場も宗教的な感覚や直感への不信によって成立します。信の立場も裏から見れば不信であり、不信も裏から見れば信であるというのが同義だという意味ではないかと思います。
「信ずるということは、排除される前に、存在しない」というのはさらに表現が不十分ですが、おそらく次のことを言いたいと思います。「すべてを疑え」というのが理性のあり方ですが、それは多くの人が信じていることも、かって自分が信じたことも疑って点検しなおせという欲求です。しかしそうムキになって信ずるということを排除しないでも、もともと信ずるということは存在しないと言いたいわけです。「存在」という用語に吉本の独特の意味合いがあるためにさらにまた分かりにくくなっています。「存在する」ということは「普遍性がある」という意味で使われていると思います。信じるという立場の人は大勢いても、その立場に普遍性がない、ということを「存在しない」と言っているわけです。
吉本は化学の学生でしたから科学というものの厳密性も限界も分かっています。同時に文学を追求する吉本は途方もない異常な感覚の世界にも深い根拠があることを知っています。一人の人間の中にも信も不信も同居することができることが吉本には分かっているのでしょう。そこで対立する立場を超えた普遍性のある真理は、人間の追及の彼方にイメージするしかないと考えることになります。