「すべてを賭けて脱出しよう。僕にだって夜明けは来ない筈はない」(原理の照明)

これは頑張ろうということを言っているわけです。
あえて解説を加えるならば、いったい何からそんなにすべてを賭けて脱出したいのか?ということになります。
吉本は詩人として「エリアンの手記」というリルケ風の詩から出発しました。しかしこの詩の世界の情緒は、敗戦の体験とその後の世界認識を得るための努力という日々の中で磨耗していきます。そして吉本に残った感性の世界は、「固有時との対話」という詩の中に描かれます。
「固有時との対話」という詩集で描かれているのは、建物、風、埋立地、赤いカンテラというような数少ない対象にだけ感性が限定された世界です。左脳の酷使が生み出すイメージの貧困化を、病気になる寸前で耐えているような無類の切迫した詩の世界が表現されています。
すべてを賭けて脱出しよう、というのはこのような病気の寸前の内面を、さらに左脳の酷使を推し進めながらも病気に陥らずに、新しい豊かなイメージの世界つまり真実を残酷に暴いても、それに耐える現実を発見しようということを意味していると思います。その追求が吉本に「大衆の原像」という、ふつうに暮らしている人々を価値の根源とみる概念を生み出させたと思います。
人は誰でもなにかに苦しんでいるといえると思います。どんなに傲慢に尊大にふるまっている嫌な人間でも、なにかに苦しんでいるでしょう。しかしなにに苦しんでいるのかを自分の中から取り出すことができ、それを素朴に剛直に言葉にできる人はまれにしか見出すことができません。吉本はなにに苦しんでいるのかを語ることができる。吉本が熱心な読者を獲得し、長く物書きとして存続できたのは、そのためであると私は思います。また文学とはそういうものなのだと思います。