「人は、自らを知るのに半生を費やす。その後で仕事が始まる」(原理の照明)

一般的には二十歳前後で学校生活を終えて仕事を始めるわけですから、半生を費やしてから仕事を始めるのはのんびりしすぎということになりましょう。
従ってここで言われている仕事とは、吉本隆明の独自の意味が込められていると考えるしかありません。吉本が仕事と言っていることは、対価を得られるか否か、あるいは生計が立つほどに稼げるか否かに関わりません。金にならなくてもやる、あるいは十分な報酬が得られないなら他の仕事で生計を立てながらでもやる、そういうことまで含めて仕事と呼んでいます。
吉本の理論的な主著である「言語にとって美とは何か」「心的現象論」は「試行」という吉本が主宰するミニコミ誌に発表されました。その後出版社から発行され、商品として売られましたが、当初は原稿料の出ないタダ働きの作品でした。膨大な努力を傾注して制作された、世界思想的に何事かを付け加えたと見なされる力作です。この姿勢の中に吉本の仕事という意味が象徴されています。
人が社会に対してなにごとかを行おうとする、そのことを報酬を得られる職業という概念よりも規模の大きなところで考えているといえます。なにごとかをしようという意欲と意思があって、それを貫こうとする人生の中に報酬の問題や生計の問題があるという構図になります。ではそこまで深くなにごとかをしようとするのは何故か、というとそこに「自分を知る」という自己資質の発見という問題が出てくるわけです。
自己資質という概念は、吉本の批評家としての先達である小林秀雄が宿命という概念で展開したものです。小林は有名な文章の中で、人は商売人でも、スポーツマンでも、学者でも、勤め人でも何にでもなれただろう。しかし彼は彼以外のものにしかなれなかった。血の中を駆け巡る真実はたった一つである、というウロ覚えですが、そんな意味のことを書いています。彼は彼以外のものにしかなれなかった、というのが宿命という概念です。
宿命とか自己資質というのは何か。それは自意識が自分を意識する時にはすでに生きられてしまった、自分の成長史の中で決定されてしまったもののことです。
それは親子の関係、特に母子の胎児期、幼児期の関係の中で決定されたもののことです。人は自由に生きたい、自由に感じ考え、選択して生きたいと思う。しかし、そういう自意識が生じた時にすでに根源から自分を決定しているものがあることに気づく。そしてそれから逃れようともがくが、どう逃げても逃げようのないものに気づく時に、それを宿命とか資質とか呼ぶわけです。その逃げに逃げてついにそれを受け入れるまでに半生を費やす、と吉本は考えています。なぜ半生もかかってしまうかといえば、一つにはそれが無意識になっているものであるために発見が難しいことと、人がすでに自分を決定しているものがあることを認めがたいためだといえます。
自己資質とか宿命というのは自分にとっての必然性ということです。こうするしかないし、こうしたい、という動機の無償性です。これが現実とぶつかるときに吉本の物書きとしての軌跡が描かれています。それは「書く」ということです。吉本にとって「書く」ということは、やむにやまれない自己資質の井戸の底から生じ、それが現実とぶつかる時に、自分の書きたいことに対応する注文があれば商品としての厳しい市場の原理に応じる水準を目指して書き、注文がなくても同人雑誌の中に、あるいは自分のノートの中にでも商品となったものに劣らない水準のものを書き続けるという規模の大きさをもったものでした。私はこの吉本の「仕事」の概念がとても好きです。