「僕の精神をあの古い哀愁の秩序に引きもどしてはならない」(原理の照明)

この世界が富める少数者の、一般大衆への支配によって秩序づけられている、という認識を一度「視た」者は、その認識から逃れることはできません。その秩序は観念によって支えられています。そしてその観念が左脳に宿るものとすれば、右脳に形成されるものは何でしょうか。それはこの秩序を心から享受できる少数者の肯定的な情緒と、この秩序に跳ね返され押しつぶされる者たちの哀愁の情緒です。哀愁とはつまり絶望的な壁とみなしたものに対する悲しみであり、惨めさであり、あきらめであり、悔しさであり、そうしたネガティブな形をとった肯定です。

人間には社会に由来するのではない永続的な哀愁があります。それは生老病死と釈迦が呼んだような宿命的な苦しみの壁に対する情緒です。愛するものを失う悲しみ、老いる悲しみ、病の苦しみ、死の恐怖。しかし、その深い永遠の課題のような悲しみにまぎれこませた形で、本来は人間に解決可能な人為的な不幸まで哀愁の情緒でごまかしてしまうことに吉本は反発しています。
吉本には初期ノートがあるように初期詩集があります。吉本の初期の詩は、架空の欧米の村に見立てた世界で、自分と周囲の人の分身が失恋や葛藤を演じるという内容になっています。その詩の世界が吉本の「あの古い哀愁の秩序」です。無意識に自分に対する慰めのために書き綴ってきた詩の世界を、獲得した社会認識の側から見たときに「視えた」のは、変えることのできるはずの社会を自然のように変えることができないものとみなしてしまう骨に絡みつくような情緒の秩序でした。感性を論理化しなければならないという吉本のこの姿勢は、このように深刻な自身への解剖の欲求から生じています。