且て関心を示すところのなかつたものが、いまは激しい関心をそそる。このことは、われわれの精神力学の特質を暗示してゐる。即ち精神がひとつの対象を把握する操作は収斂作用である。精神のひとつの収斂によつて同時にひとつの対象が把握されるのみである。(〈詩集序文のためのノート〉)

かって関心を示さなかったものが、いまは激しい関心をそそるというのは、たとえば吉本の場合、世界認識の方法、具体的にいえばヘーゲルマルクスのドイツ系の思想だと思います。ではかって関心を示したもの、というのは日本帝国の軍部が流布してきた東亜解放のイデオロギーだったわけです。そのイデオロギーの限界から吉本を解き放ったのは敗戦でした。そして吉本は新たな世界認識の方法を求めてマルクスなどの思想に激しい関心を抱いたということになります。しかし敗戦後も軍国主義イデオロギーから抜け出ることができずに右翼になっていった者もいます。多くの思想を検討し軍国主義思想にたどり着いたのではなく、若いころに精神をひとたび集中して軍国主義にかぶれたゆえに、そのまんま戦後に頭のスイッチが切り替わらなかったのではないかと思います。なぜなら勢力として宣伝カーなどを乗り回して存在してはいても、思想として戦後に影響力をもつようなことはなかったからです。
どういう思想に出会い、その思想に精神を集中し、その結果その思想を信じたりかぶれたりするということは偶然もあるでしょうし、時代の必然もあると思います。そしてそのかぶれた思想がそれなりに世界全体を包括するものであった場合、政治思想でも宗教思想でもいいですが、そこからどう出るかが問題になります。入口はどこにでも転がっていますが、出口は自分で見つけるしかない。そしてどう孤独に抜け出したかだけが、その人の固有の思想になるような気がします。
この場合、思想を共同体の思想、あるいは共同観念とか共同の規範とかと考えれば、近代の以前のアジア的段階の世界、日本でいえば江戸時代以前の世界では自分の置かれた共同体の観念や規範から抜け出るということは不可能であったと思います。そこでは共同体の思想と自分の自我とはあいまみれているわけで、農民は農民の、町人は町人の、山人は山人の、武士は武士の共同観念と規範のなかに生涯疑うこともなく棲むのだと思います。そこからはみ出すことは死を意味するということだったと思います。明治以降だって西欧思想を深く身につけた一部の文学者や思想家を除けば、一般大衆はアジア的段階の世界にいたと思います。そしてアジア的世界を抜けたようにみえた先行者的な文学者や思想家たちも太平洋戦争のなかで、軍国主義思想という共同体の観念と規範に取り込まれていったわけです。だから敗戦だけが、アジア的段階の世界に亀裂が走って、共同体の幻想から個の思想がはっきりと分離する契機となったのだと思います。
精神がなにかの思想にかぶれるという吉本にとっては血の流れるような自己体験を、それは精神の力学として一つの収斂作用であって、そこで把握されるのは一つの対象のみだ、というこのノートの化学者のような書き方は、吉本が自分から遠く離れた抽象的な観点から、自分の血の流れる問題を解剖しようとしているということです。この極度の抽象性の思考の鍛錬が、吉本をいくども内省させ、現実総体を把握するための思想の転換を繰り返させてきた根底なのだとわたしは思います。
それではいつものように吉本の把握する「うつ」の解説に移らせていただきます。
人間は赤ん坊のときには世界を区分して把握しないわけです。その感覚を再現することはもはやできないわけですが、赤ん坊のビー玉のような目には、区分される以前の世界が映っていると考えられます。その赤ん坊がやがてこの世界を把握していく最初の根源的な把握はなんだろうと考えると、それは自分と世界は別のものだという把握ではないかと思います。吉本はそのことを、自分の身体が「いまーここにーある」という把握だと考えています。「いま」という把握が時間性の、つまり了解性の把握の根源であり、「ここ」という把握が、関係性の、つまり空間性の把握の根源になる。では「ある」という把握は何か。そこから吉本は「うつ」の解明に入っていきます。
「いまここにある」特に「ある」ということがあいまいになることがありえます。「うつ」病者の記録をみると、「じぶんがじぶんのような気がしない」とか「身体に精神が入っていないという漠然とした感じがする」というような記述に出会います。これは「ある」という把握の根源の障害だとみなすことができます。この「ある」にもかかわらず「ない」という否定的な志向性とはなんなのかということになります。吉本はこの「あるにもかかわらずない」という志向を「わたしはー身体としてーいまーここにーある」という時間的―空間的な「自己了解づけ」と「自己関係づけ」の総体に対する否定的な志向とみなします。つまり赤ん坊が最初にこの世界を把握する根源にさかのぼって否定されるような状態を「うつ」にみているということになります。
ここで吉本は重要なことを書いています。
この自己了解づけと自己関係づけの総体についての否定は、「自己了解づけ」の正常な逆立と、「自己関係づけ」の縮小や消滅によって記述的に表象される状態のようにみなされる」(心的現象論本論 関係論)
これは分かりにくいでしょう。だから解説していきますが、いっきには解説できないので手順を踏むしかありません。しかしこの文章を覚えておいてほしいと思います。
「自己了解づけの正常な逆立」というのは何か。それは「過去」へ逆行しながら「原過去」へではなく、「過去」へ逆行しながら「現―現存性」へという時間的な構成によって、もっともよく表象されると吉本は述べています。これはキルケゴールの思想を吉本が自分の思想の方法によってよみがえらせようとしているわけです。過去のできごとに意識が戻っていく、それは誰にでもいつでもある普通のことです。子供のころはこうだったな、というように。それは追憶です。その場合は、意識は過去へ逆行して原過去に至っているわけです。40歳のあなたが10歳のあなたという原過去に戻っています。それは追憶であって「うつ」ではない。「うつ」では、過去に逆行しながら現存在、つまり「いま」にいたるわけです。そんなことがありうるのか?
過去に戻り原過去に至ってそこから戻れないとしたら、40歳のあなたは10歳のあなたに回帰してとっちゃん坊やの状態に囚われることになります。実際、痴呆の老人にはそういう人がたくさんいます。あなたいくつ?と聞くと「17歳」と真顔で答える老女はいっぱいいるわけです。それはいわば「自己了解づけ」の「逆立」です。しかしそうではなく、過去に逆行しながら現存在にいたるとすれば、それは「自己了解づけの正常な逆立」というしかないということでしょう。よくわからない言いかたですが、ちょっと置いておきましょうね。もうひとつの「自己関係づけ」の縮小や消滅というのは何か。それは「自己を自己として受け入れる」ことの縮小や消滅であるために現存性の占める空間的な意識は縮小または消滅する、と吉本は述べています。自己了解が「過去」に逆行しながら「現存在」へ、という「正常な逆立」に囚われてしまったために、「現存在」である自己を自己として受け入れることが難しくなったということでしょう。つまり「じぶんがじぶんのような気がしない」状態になっています。そのことを現存性の占める空間的な意識の縮小または消滅と吉本は書いているのだと思います。
さてわかったようなわからないような感じだと思いますが、だんだんはっきりしていけばいいじゃないのということで先に進みます。ここから吉本は自身の「うつ」の解明に向けて考えていくわけですが、吉本の武器は自分で作り上げた原理論です。それは「共同幻想論」や「言語にとって美とは何か」「心的現象論序説」などでこつこつと築き上げてきた原理論です。吉本はこの「うつ」の解明に幻想論の原理論を使っています。つまり対幻想、共同幻想、自己幻想という3つの軸で人間の意識と無意識の世界を区分して考えるという原理論です。そうした方法を築いていなかったら、キルケゴールとかフロイドとかの「うつ」についての鋭い考察を批判的に再構成するという力技は不可能だったはずです。西欧の数百年をかけて築かれた思想の山脈に、裸でぶつかればつぶれるしかない。そういう先行者の生きざまを見たうえで、ただ理論性だけが拮抗しうるという洞察によって吉本の原理論の苦闘はおこなわれていったのだと私は思います。
まず「対幻想」における「うつ」とは何か、というところから吉本の分析は始まっています。キルケゴールの鋭い考察が、「現在にありながら追憶するもの、あるいは、<追憶>する現在感」という指摘を残してくれた。キルケゴールは「追憶」という概念を決定的に深めたというか、思想として別物にしたわけです。それがキルケゴールの「反復」という思想概念の肝になっています。しかしその「追憶」の概念は吉本によれば「対幻想」の概念ということになります。ということは共同幻想や自己幻想にまで無制限に拡張できないということです。「対幻想」という幻想の軸に限ってこの問題を考えるとどうなるか。
このテーマは「心的現象論本論 関係論」の「<うつ>関係の拡張(1)」という章に書かれていることです。こんなことを言えば元も子もありませんが、原文を読めばいちばんいいんですよ。解説なんていりませんよ実際のはなし。「お勧めのとおり原文を読みますから解説はもういいです、ごくろうさん!」と言われればそれで解決なんですけどね。まあ、それでもやるとすれば、できるだけざっくりわかりやすく解説して、物足りない人は原文をって感じですかね。この本は高い(文化化学高等研究院刊 19,048円)しね。しかし買う価値はありますよ。
吉本はこの章で、西欧の学者の研究からうつ病者の記述を例示して、「対幻想」における「うつ」の考察をおこなっています。これをどう解説するかということですが、私の書くことに「えー?」とか「マジ?」とかの疑問を持たれたら、金がないなら図書館にいってでも原文を読んでくださいということですね。そういうことで、私の解説をしてみます。
「色情症」とか「ニンフォマニア」とか「淫乱」っていうものがありますね。女性についての色情症というものを取り上げてみます。そういう人、みなさん経験ありますか?そういう人の「やりたくてしょうがない、性欲が強くてこまる」という症状の根源は「うつ」だということを吉本は述べていると思います。なぜか。
まず根源になにがあるか。そこには「時間意識」の障害があるわけです。それは今まで述べてきたことと同じです。「いま」という了解意識、時間意識の障害です。「いま」が過去に向かいながら「原過去」にたどり着かずに「現存在」にたどりつく。そのために、過去を志向しながら現在にたどり着くために、「現存在」にたどり着いたときに、いつも極小の自己了解の時間性にたどりつく。また自己身体にたいする関係意識はもっとも縮小し、あるいは消滅する。これは自己の自己の身体にたいする関係意識が、自己意識と自己身体のあいだで拡大され、その度合いに応じて、自己を現在に「ある」と意識させる空間識知が縮小されてしまう、と吉本は述べています。この状態では意識はいつも「身体にめり込んでしまう」可能性をはらんでいるとも述べています。
要するにすべてが貧弱になってしまうということです。自分の「いま」も過去に引きずられてあいまいになっているし、自分の「ここ」も自分のからだしか意識できない貧しさのなかにある、それが「うつ」だということです。じぶんのまわりにちいさな輪があり、その内側にしか意識が向かない。それが「うつ」という状態ではないでしょうか。その根源にある「いま」と「ここ」の障害が幻想論の軸にそって、「対幻想」つまり「性」として表れたときにどうなるか。
ざっくりいえば、貧弱になった自己意識や自己感情を埋め合わせるために、性の意識が拡大するということだと思います。色情狂、ニンフォマニア、色狂い、セックス依存症、それは貧弱になった自己をセックスで埋め合わせようとしているんだということです。なんだそんなことか、ということでしょう。自分が貧しい、ってことの埋め合わせかという。
しかしそれで終われば「うつ」に対する軽蔑にすぎないわけでしょう。「うつ」の人から振り回されて、いろいろいやな目にあってる人はそういう軽蔑に傾きます。「うつ」なんて要するにダメなやつってことだという。しかしそれでは「うつ」理解にはならないし、いつ自分も「うつ」になるかもしれない、ということに無自覚だということになります。そこで吉本が「うつ」の西欧の症例にそって述べている見解を解説します。
サラ・マルチン夫人の「うつ症例」ではマルチン夫人は16歳のときの恋愛という「過去」に戻ろうとします。その過去にはかってつきあっていた青年が同性愛者だと知って、家族が分かれさせたという事実がありました。マルチン夫人は彼に会い、繰り返し拒絶されます。吉本が分析するには、マルチン夫人は過去に戻ろうとしているのではなく、現在の「うつ」状態から解放されるだろう「未来」へ「過去」の恋愛事件を喚びにいっている、ということになります。だからこの青年との「過去」は、現在の「影」だというのです。過去そのものではなく、現在が未来へ向かおうとする手段としての「影」だということです。あるいはその青年は「病としての現在」であると吉本は述べています。
「うつ」にとっての「過去」は強固に固執されるものですが、それは「過去」そのものではない。「過去」そのものだったら、それは「追憶」であって過去にしか存在しないものです。「うつ」にとっての「過去」は「現在の影」だから、固執されているのはほんとうは現在と未来であって、そのために過去が「喚ばれている」ということです。悪魔を喚ぶみたいに。
さらに吉本が取り上げている症例はエヴリン・クイグレイ夫人の例です。彼女は「潔癖症」です。夫を「汚い」と感じ、夫のすべてにファブリーズするみたいに消毒します。なのに突然、動揺期の頂点になると性欲が昂進し、夫とセックスを楽しみます。そして頂点が過ぎるとまた夫が「汚い」と感じファブリーズ奥さんになる。これじゃ夫が気の毒だ。
この症例から吉本が考察しているのは、夫を不潔だと感じるのは実はエブリン夫人自身が自身の身体にたいして感じている「不潔感」だということです。自分にとって自分は自分自身としての無意識ではなく、「ひとりの他者」だということです。自分も「他者」です。それが自己の身体意識です。意識するということは「他」とみなすということです。自分の自分に対する身体意識が貧弱になれば、自分が自分の不潔感を感じる。それが転移されて夫が不潔ということになるわけですが、それをさせているのは「対幻想」です。自分が汚いと感じるなら、自分自身をファブリーズすればいいじゃないか。それをなんで夫にファブリーズするのか。それは自分でもなく、夫でもなく、その間にある「性の意識」がさせるということになります。そしてそれが過剰にあらわれえるのは、エヴリン夫人が不潔感という形で「罪責感」を感じているからです。エヴリン夫人は「罪責」となった「不潔」を祓うために、夫をファブリーズしているわけです。わかりにくいとは思いますが、そのうちわかるさということで先に進みます。
さらにジャック・ブランク氏の症例があります。ブランクは19歳のときにうつ病になり、同性愛になるのではないかという恐怖が残った。29歳のときにうつ病が再発した。彼は同性愛の相手を探し、セックスをした。37歳まで同性愛の道を歩いた。その後異性愛を目指そうとしているがうまくいかない。吉本が述べるには、ブランクは性的対象となる人がいないときに、「うつ」病になったために、ひとりの他者としての自己自身が、観念的に性の対象になり、同性愛をもたらしたと述べています。つまりあれですよ、自分自身を他者として愛すとか、自分自身を他者として性の対象とみなすということが普通の感覚ではピンとこないわけでしょう。自分?自分を自分が性の対象?ありえない!という感じでしょう。しかしそれはありうるというのがフロイドや吉本の考察です。吉本は同性愛というものは、大なり小なり自己を対象とする性愛だと述べています。これはとても重要なフロイドの思想ですが、ちょっと置いておきます。
最期にベアトリス・ビクヌー夫人の症例があります。彼女は耳鳴りの症状から半狂乱になり、強烈にセックスを求めるようになります。「私はどうしても満足できませんでした。私が昨夜、夫が3回セックスをする間に20回近くもオルガスムに達し、それでもなお満足できなかったのです。私が考えることができるのはセックスのことだけです(クレイネス「うつ病の本態と療法」)これでは旦那は大変だ。
吉本のこのビクヌー夫人という色情症の奥さんにたいする考察は、私という自己意識が縮退し書滅しかかっているゆえに、性的関係の意識(対幻想)が「私」に侵入している状態だということです。だから「オルガスム」を感じている、いわゆる「イッている」のは「私」ではない。「私」は性的な嫌悪感や不潔感や性的欲望の減退を感じているのとまったく同じ状態にいる。そんなにセックスづけになっているのに。自分の意識の貧しさ、縮退、消滅という情けない事態が、逆に性的な関係意識の過剰となってあらわれる。自分の貧しさのきわみと、セックスの大暴れとが同じ身体のなかで同居している。
最期に吉本は見事なことを述べている。
性的な過剰だけでなく、過少もありうる。食欲の過食と拒食があるように。では、なにが性的な過剰と過少の区別になるのだろうか。それは「うつ」へと追い込まれるしかたの固有性にかかわっている。
ある「個人」にとって性的な関係の意識が、構造として強固に存在するとき、「うつ状態」で、性的な不能あるい不感のほうに減退される。
逆に、性的な関係の意識が、強固な存在をもたないとき、「うつ状態」で、かれは性的な過剰、淫乱症的になる。
こう述べています。性的な関係の意識は、個体にとって自己意識の上層にあたかも共同の観念のように、あるひとつの構造をもって存在していて、性の自己意識にたいして、超自我のように働くと考えられています。具体的にいえば、恋愛とか結婚とかの性の問題について、それが自分の上から命令のように支配しているかどうか。親の意見とか、親族の意見とか、家柄とか、世間体とか、そういう自分の上のほうから自分を支配するものとして恋愛や結婚に口を出してくるか否か。それがあまりにも強く支配的で、親だの親族だの宗教団体だのが自分自身の自然な愛やセックスや、同棲や結婚にまでガンガン口を出してくるところでは、貧弱になった自己は性的な関係意識つまりセックスに侵略されてしまうということです。かって家制度が強固であった時代に、狐ツキとかなんとか憑きといわれて幽閉されたような女性には、そういう「うつ」があったのかもしれないと思います。
いろいろな現れかたがありますが、性の関係、「対幻想」としてあらわれる「うつ」とは、自己の貧弱化からくる性の意識の支配という共通性があると思います。ではまた次回。