分化せられた社会機構における精神の本能的な防衛力として、近代は組織を有つに至つた。(断想Ⅷ)

これは何を言いたいのか私にはよくわかりませんが、近代になると社会機構は分化するということがあります。近代以前では、第一次産業つまり自然に対する農業や漁業や牧畜が主体だったわけです。それも産業としては分化してはいますが、近代以後の第二次産業つまり工業がもたらした産業の分化とは比べ物になりません。農業などが主体の社会では、自然にむかって働くという一体感があるわけで、これがもっと以前の段階になると、自然とまみれて、自然と自分たちの共同体や自分自身との区別もつけられないということになります。それで現在の分化がきわまった社会の、スーパーのレジ打ちや電話営業を一日中繰り返すような生活より、近代以前のほうがましだったと感じる人たちは都会からUターンして、田舎暮らしをしたり東南アジアへ老後の移住を考えたりするのだと思います。
それで必然的に分化した産業の個々の場面を、総合化し統合するものが組織だといっているんじゃないでしょうか。それが分化がきわまりバラバラの場面にしばりつけられ、バラバラになった精神を総合化し統合するということです。毎日同じことを繰り返して、切符を切り続けたり、老人のおむつを取り替え続けたり、政党のチラシをまき続けたりしている自分だけど、自分の属する組織は総合的な機能をもち、統合された擬似的な人格のようなものをもっているという感じです。そこに自分のさみしい個を託していくわけですね。
しかし吉本は組織というものを賛美しているわけではありません。この文章だけではわかりませんが、組織は精神が作り出すが、精神を疎外するにいたるというようなことを書いています。
その問題を原理的に解明したのが共同幻想論ということになるでしょう。
さて吉本の「うつ」理解の解説に移らせていただきます。今までの解説では吉本が紹介する思想家・学者の「うつ」理解を解説してきました。キルケゴールフロイト、クルト・シュナイダー、ビンスワンガー。そしてビンスワンガーへの批判のなかから吉本自身の「うつ」理解が姿をあらわします。それはわかりにくいものです。このわかりにくさ、難解さというのは、言っている内容が難しいというだけでなく、今まで聞いたことのないような考え方にでっくわしたわかりにくさという意味があります。それは心身の相関についての原理的な考察というものですが、それが吉本の心的現象の考察の根本にあるものに違いありません。
フロイト「うつ」を自我の一部のいわば「良心」の部分が、自我の他の部分を対象的に批判的に評価し、あたかも独立した「力域」を形成するようになると考えました。つまり自我が分裂し、「良心」の道徳の権化のようになった一部分の自我が他の自我を責めさいなむわけです。さらにフロイトの「根源的なナルシチズム」という概念を吉本は紹介しています。根源的なナルシチズムとは、乳児期に母親との関係で作られる自己愛です。この自己愛が対象愛に発達していくわけですが、その対象愛が困難になったときに再び自己愛に退行します。しかしすでにこころは成長しているわけですから、根源的なナルシチズムに退行した自我とそれ以外の自我、つまり対象愛を残す自我との間に対立、分裂が生じます。自我内部の葛藤が生じるわけです。それが拒食や過食、自殺願望などの「うつ」の症状を引き起こします。それでは「良心」と「根源的なナルシチズム」との関係はどうなんだという問題が出てくるでしょう。それはよくわかんないので、後回しにします。しかしいずれにせよフロイト「うつ」理解では、幼児期のリビドー、つまり幼児性欲の問題があり、また「良心」が関わる自我の分裂の問題があることになります。これらは精神の問題であり、いいかえれば「倫理」の問題ということです。精神の根底にある分裂や対立が引き起こす「不安」だから倫理的な「不安」の問題とみなされます。
このフロイトの思想を受け継いだクルト・シュナイダーの「うつ」理解は、「基層抑うつ」という概念を持ち出します。「基層抑うつ」の層は、外界の出来事の意味内容ではなく、衝撃力によってこころをむき出しにされたときに露出してくる心の根源の層です。するといずれにしても、フロイトもその影響を受けたシュナイダーも、「うつ」を外界の出来事の意味とは因果関係をもたない根源的な心の層が露出する「倫理的な不安」と考えているといえます。たとえれば砂漠の底に埋まっている遺跡のように、砂漠がものすごい嵐に吹き荒れたときに姿を見せるような感じです。「良心」であれ「根源的なナルシチズム」であれ「基層抑うつ」であれ、それは精神の初源の形成に関わる存在、倫理的な存在で、それが自我内に分裂や葛藤を引き起こすことを「うつ」と考えているといえると思います。
その「うつ」理解を批判したのがビンスワンガーです。ビンスワンガーはフッサールの減少額の影響下に、「うつ」を人間の時間的な構成の失敗のしかたと考えました。時間的な構成の失敗というビンスワンガーの考え方は、結果としてキルケゴール「うつ」理解に近づいています。キルケゴール「うつ」(メランコリー)を了解の時間性が現在から過去に逆行するだけでなく、過去へ逆行しながら現在の「非存在」の自分に向かうと述べています。キルケゴールの恋する男のたとえに沿っていえば、彼は恋愛した最初の日からもう恋愛が終わったものとみなしている。「(恋愛を)はじめるときに恐ろしく大股に歩いたために、彼は人生を飛び越してしまったのである(「反復」キルケゴール)」このキルケゴールの「未来を追憶する」という「うつ」(メランコリー)の理解は、ビンスワンガーの過去から未来へという正常な時間構成が失敗し、過去に閉じ込められ、そしてその過去から空虚な未来、そこには非存在の(ちっぽけな)自己があるという考察によく似ているわけです。
そして問題はそういう人間の時間構成というものを、ビンスワンガーが「自然現象」とみなしていることです。人間の時間構成というものは正常であれ異常であれ、「自然現象」だということです。それは精神が作り出した倫理的な不安ではなく、なんらかの理由で自然の正常な時間構成が失敗したときに、自然が修正した応急処置のような「空虚な」時間構成が「うつ」というものだと考えていると思います。
こうした「うつ」理解の対立を紹介して、その批判という形で吉本の「うつ」理解があらわれます。吉本はビンスワンガーのいう「自然」の概念があいまいであると批判しています。「うつ」を自然現象だというなら、なぜ生理(体質)現象だといいきらないのか、と吉本は疑問を投げかけています。しかし「うつ」病を内因性の精神病とするかぎり、生理現象にまで解体することはできない。だとしたら精神(倫理)と身体(自然)の相関について、ビンスワンガーの考察はあいまいさを残していると吉本は考えます。
ここから吉本の心身相関の領域についての吉本自身の理論があらわれます。
「あらゆる枝葉を排除したあとで、人間の現存在を支えている根拠は<わたしは−身体として−いま−ここに−ある>という心的な把握である(「心的現象論本論 関係論」)」
これが吉本の心身相関の理論をひと言で言いあらわしたものだ。吉本は、この言い方の<いま>は現在性の時間的な言い回しであり、<ここに>は空間的な言い回しであり、もっとも問題なのは<ある>という概念であると述べています。ここから吉本の論理は、先ほどの太字で書いた吉本の心身相関の定義を前提として進んでいきますが、ちょっと待ってくれと、その、「私は身体としていまここにある」というのが現存在の根拠だという考え方がよくわからんぞ、ということになりましょう。それは当然なんで、わたしもよくわかりません。そこでどっかりと腰を下ろして、この定義についての吉本の考察を、せめて(なんとなくわかった)というくらいのところまでは追求してみます。しかしその前に、この定義を前提とした吉本の「うつ」理解をもう少し追ってみます。
「わたしは身体としていまここにある」もっと突き詰めていえば「わたしは身体としてある」という心的な把握が損なわれることがありうる。それが心的な異常です。吉本は、実在性の次元で身体が客観的に<ある>にもかかわらず、<ある>と感じられない(識知されない)ことがありうる、と述べています。もうひとつ、<ある>にもかかわらず<ない>という否定的な志向性に決定的に支配されることがありうる、と述べています。ちょっとこの言い方はわかりにくい。<ある>にもかかわらず<ない>と感じるといはどういうことか。前者の<ある>にもかかわらず<ある>と感じられない、というのは後者の<ない>と感じる、という状態の前段階とみなしていいかと私は思います。<ある>にもかかわらず<ある>と感じられないという前者の状態は、「うつ」の臨床報告のなかで「彼女はしだいに脱力感を覚え、身体に精神が入っていないという漠然とした感じを味わった」というものや、「気分がよくありません。自分が自分のような気がしません」というような部分に相当していると吉本は述べています。そして後者の<ある>にもかかわらず<ない>と感じるというのは、「うつ」病の不安や罪責感や自殺念慮の状態に相当すると述べています。
吉本は前者の状態はすべての妄想知覚や類似の症候に共通なもので「うつ」病に固有なものとはいえない、として後者の「<ある>にもかかわらず<ない>という否定的な志向性に決定的に支配される」状態が「うつ」固有の状態だとみなしています。
ここまで考察して、吉本のビンスワンガー批判になります。ビンスワンガーは「うつ」は人間の自然である時間的な構成の失敗が引き起こすもの、失敗を取り繕って逃避した自然のやり方が「うつ」であるとみなしています。吉本はそれに対して、人間の現存在の根源は「わたしは・いま・ここに・ある」ということにあるという自らの原理論をもって批判を行っています。「わたしは・いま・ここに・ある」ということを否定的に志向することがあるならば、それは「わたしは・いま・ここに・ある」という時間的な「自己了解づけ」と、空間的な「自己関係づけ」の総体に対する否定的な志向性になるしかない。それは「<わたしは・いま・ここに・ある>−<ない>」というようにあらわせる。
吉本はビンスワンガーが、自分の身体があるのに「ない」とみなすという「うつ」の病態を、人間のもともともっている、つまり精神と関わりなく初めからそなわっている時間構成のあり方が失敗し、あるいは障害を起こし、それをまた自然が自然的な修正をいわば自動的に、精神と関わりなくおこなった結果、生じてきた症候だとみなすことが納得できないわけです。とはいえ、フロイトやシュナイダーのようにまったくの倫理的な不安だとみなすことも納得がいかない。だから身体と精神についての自分がとことん納得のいく原理をかんがえることから、いわば総批判ができる思想的な位置を獲得します。
「<わたしは・いま・ここに・ある>−<ない>」と言いあらわすしかない「うつ」の状態は、「自然現象」でもなく「観念現象」でもなく、いわば「自然−観念現象」に基づいていると吉本は述べています。「自然−観念現象」とは言い換えれば「心身相関」の現象です。この「自然−観念現象」の次元で、<わたしは・いま・ここに・ある>という現存性に対する否定的な志向性は、現存在の<自己了解づけ>と<自己関係づけ>の否定とを包括せざるをえない、と吉本は述べています。なんかどんどん引用しつつ書いていますが、どうすか?伝わってますか?
吉本は、特に「試行」で本質論を書いている吉本はイケイケなんですよ。自分自身がむきになって書いています。あまりわかんない人に親切とはいえません。それよりもむきになって真実を追うという感じです。しかしどこにも書いてないことをいきなり書いたりはしません。唐突にみえる考察も、かならずその下地となる考察がどこかに書いたうえで展開しています。そういう意味では親切というか誠実です。よく読んでくれればわかります、という姿勢で書く人です。
だからここの部分の考察がよくわからないのは当然です。吉本の「自然−観念現象」という心身相関の原理をふまえてもう一度読み直す必要があります。しかしとにかくこの部分の考察の結論部分までいきましょう。
吉本は、この「<わたしは・いま・ここに・ある>−<ない>」と言いあらわすしかない状態は、<自己了解づけ>の正常な逆立と、<自己関係づけ>の縮小や消滅によってあらわされると述べています。そしてこの<自己了解づけ>の正常な逆立は、<過去>へ逆行しながら<原過去>へではなく、<過去>へ逆行しながら<現−現存在>へという時間的な構成によって、もっともよく表象される。また<自己関係づけ>の縮小や消滅は<自己を自己として受け入れる>ことの縮小や消滅であるために現存在の占める空間的な意識は縮小または消滅する、と述べています。
そういわれてもよくわからないと思います。しかしこれはキルケゴールの「うつ(メランコリー)」の文章に近いところにあるものです。「うつ」は過去に逆行する。過去にとらわれるわけです。しかし過去に戻り過去の城のなかに閉じこもるのとは違うようです。過去に逆行しながら、現在に向かう。そういう時間構成に従っているということになります。しかしそのたどり着いた「現在」はいわば過去に憑かれた現在です。それが時間的にみられたわたしの心身相関の状態です。そして空間的にみると、自己は非存在としかいいようのない空間意識の縮小・消滅の状態に追いつめられている。そういうのが「うつ」だ、ということです。これを理屈として納得がいくためにはもっと吉本の心身相関の原理を開いてみる必要があるので、次回はそれをやってみます。